有効期限
天文十七年の五月の岡崎城の大広間で、私は竹千代を当主にするよう要求した。
これに関しては失敗する可能性がとても高く、もしそうなったら適当なところで引き上げるつもりだった。
剣呑になる家臣団とは違い、松平広忠は何故か思いっきり食いついてきた。
おかげで私は困惑しながらも、真面目に交渉を進めざるを得なくなってしまう。
彼は大広間の一段高い位置から見下ろしながら、声をかけてくる。
「来年の収穫期になっても結果が出なければ、如何するつもりだ」
私はそれを聞いてピンときた。
もし成果が上がらなかった場合、ここぞとばかりに反撃に出るつもりだ。
尾張で寺院や特権階級の者たちを説得した時と、殆ど同じような状況である。
それを察した私は、間髪入れずに大声を出した。
「もし、何の成果も得られなければ──」
意見を通したければ力を示して、無理なら大人しく引き下がれということだ。
しかしあいにく、私は負けるのは大嫌いであった。
なので売り言葉に買い言葉で、またもや深く考えずに堂々と啖呵を切った。
「三河には手出さないと、稲荷神様に誓うわ!
それに竹千代君の統治も撤回するわよ!」
他にも人質の返還やら色々と、私が勝負に負けた場合の三河の利点を順番にあげていく。
すると先程までは剣呑な雰囲気だった大広間も、利益が得られるとわかると興味が出てきたようだ。
皆が揃って耳を貸すようになる。
そのまましばらく話していると、松平広忠が私を見つめて、はっきりと口を開いた。
「つまり三河にとっては、勝っても負けても得になると言うことだな」
「まあ、そうなるわね」
私は相変わらずの人生綱渡りで、勝利しか許されていない。
だが三河は、勝負に勝とうが負けようが得をする。
「この条件を受けるか受けないかは、貴方たちが決めてちょうだい」
大広間に集まった者たちは皆、一段高い場所に座る松平広忠に注目した。
やはり当主である彼が決定権を握っているのは、間違いなさそうだ。
しかし松平氏は何やら深く思案し、顎髭を弄りながら口を開いた。
「一つ、わからぬことがある」
全部説明したはずなのだが、まだ不明な点があるのかと、私は口を開かずに考える。
「美穂殿は、何故そこまで三河の肩を持つ」
この質問には、少し困った。
三河と尾張は敵同士だが、未来の日本では両方合わせて愛知県になっている。
それはなしにしても、喧嘩するより仲良くしたほうが良い。
なので私は、自らの心の内を偽ることなく正直に告げた。
「戦乱の世を終わらせるために、松平家の力を借りたいからよ」
「だが、それは夢物語ではないのか?」
彼の言うことは、一理ありだ。
全くもって正しいと、小さく頷く。
「でも、決して不可能ではないわ」
たとえ小さな一歩であろうと、天下統一に確実に近づいているのだ。
そして自分の説得とも言えないゴリ押し理論を聞いた彼は、しばらく考え込んでいた。
しかしやがて挑発的な笑みを浮かべて、口を開いた。
「ならば、美穂殿の力を証明してみせよ」
「それは、条件を受けると言うことかしら?」
反射的に尋ね返すと、松平広忠は小さく頷いた。
「期限は来年の収穫期までだがな」
最短でそのぐらいで効果が出ると説明したので、可能性はあった。
しかし、それを本当に受けるとは思わなかった。
「誰ぞ異論のある者はおるか!?」
松平氏が大広間の家臣たちに向けて、堂々と尋ねた。
「異議なし!」
「吐いた唾は呑めぬぞ! 美穂殿よ!」
「竹千代様! 来年までのご辛抱でございますぞ!」
誰も異論を挟まないので、完全に意見が通った形となる。
もはや後には引けなくなった。
ならば来年の収穫期には、ギャフンと言わせてやろうと内心で気合を入れる。
私の背後で若干青い顔をしている竹千代を、絶対大丈夫だからと落ち着かせつつ、松平広忠やその家臣たちと、来年の収穫期までの具体的な打ち合わせを行うのだった。
岡崎城で啖呵を切ったことに対して、父と弟に謝罪文を送っておいた。
けどまあ、自分が感情のままに暴走したり、行き当たりばったりで行動するのは予想済みだったようだ。
結果として、織田家にとって利益のある形で落ち着いたので、遠回しでネチネチ書き込まれたが、何だかんだで協力してくれることになった。
元女子高生の人格が固定されているため、自分に正直にしか生きられないので仕方ない。
それはともかくとして、今は岡崎城下の武家屋敷を借りて政務を行っていた。
城でも良いが、今は機能性重視だ。
片付けるべき仕事が山積みなので、手早く進めないと期限に間に合わないのだ。
執務室代わりに使っている個室の机に向かい、今後の予定を書面にまとめながら、顔を向けずに竹千代と会話をする。
「美穂殿、私は三河を統治できる気がしません」
彼が円座に腰をおろした状態で、小さく溜息を吐いた。
「竹千代君を巻き込んだのは悪いと思ってるわ」
書類仕事をしながらの、申し訳程度に謝罪の言葉をかける。
「でも、今の三河に竹千代君を返還したら、絶対ろくなことにならないわ」
竹千代が二度と人質に出されないためにも、当主になってもらうのが手っ取り早い。
だが何の実績もなく、成人してさえいない彼が上に立つのを認めない家臣が多いと言うか、それが普通だ。
「それは、……そう、かも知れませんが」
何とも重い溜息を聞いて、この子は将来も苦労しそうだなと、何となく思った。
「とにかく、来年の収穫期までに尾張の統治や方針や農法その他諸々を、徹底的に叩き込むわよ」
「早急すぎませんか?」
横目で竹千代の様子を伺うと、引きつった笑顔を浮かべているのがわかった。
「急ぎすぎなのはわかっているわ」
けれど、泣いても笑っても期限は一年と少ししかない。
成果を出して竹千代を当主として認めさせるには、その間に何とかしなけれいけない。
「既に賽は投げられたのよ」
確かローマのことわざだった気もするが、意味さえ通じれば細かいことはどうでも良いのだ。
何にせよ失敗したら、自分が三河に関わることは、もうできない。
なので今回が最初で最後の機会と言える。
「自分にとっては、覆水盆に返らずとも言いますね」
「竹千代君は難しい言葉を知ってるわね」
本当は頭を撫でて褒めてあげたいところだが、今は仕事が山積みで手が離せない。
織田家の他に今川家と斎藤家にも何故かせっつかれているため、本当に多忙を極めているのだ。
そもそも、頭を使うのは信長の役目だ。
しかし、自分で取ってきた契約だからこそ、現場で責任を持って片付けなけれはいけない。
それでもきっと、竹千代の補佐が終われば落ち着くはずだ、
いつか私ものんびり暮らせる日が来ると、希望を捨てずに書類仕事に勤しむのだった。




