岡崎城
天文十七年の四月、駿府城で、織田と今川の同盟が締結された。
さらに松平の領地からも手を引く約束まで取り付けた私は、すぐさま次の仕事に移る。
休む暇がない程忙しいが、松平竹千代を必ず家に帰して、母親と再会させると啖呵を切ったのだ。
彼は三歳の頃に母と生き別れになった。
幼年期にそんな過酷な仕打ちを受けたと聞かされれば、助けになってあげたいと思うのが人の情である。
なので私は、またもや行き当たりばったりで行動を開始したのであった。
那古野城には戻らず、熱田の加藤順盛の屋敷に向かう。
そこで竹千代だけを連れて、三河に直行する。
人が増えると動きにくくなるので、お供の人たちは後日連れて行くと安請け合いした。
帰路の関所で何度か止められて少し揉めたが、ここにおわす御方をどなたと心得る! 頭が高い! 控えおろう! といったゴリ押しで乗り切る。
おかげで何とか無事に、天文十七年の五月に三河の岡崎城へと入城したのだった。
先触れを出して、人質の竹千代を返しに来たと伝えていたので、無礼討ちをすれば恥の上塗りになる。
織田が憎いとは言え、礼を失する行動をするわけにはいかない。
渋々ながら通行を許可し、城門を開けてくれたのだった。
私は今川家と同じか、それ以上に剣呑な雰囲気な岡崎城の大広間に通された。
表情が引きつって怒り心頭といった家臣団に囲まれる中で、竹千代たちよりも一歩前に出て、平然と挨拶をした。
そして一段低い場所でこちらを見下ろしている、現当主である松平広忠を真っ直ぐに見つめる。
そのまま迷えば殺られるとばかりに、初手必殺で大声で啖呵を切った。
「竹千代君を、今すぐ松平家の当主にしなさい!」
「「「なっ!?」」」
この場に集った誰もが、一斉に驚いた。
ちなみにこの発言をした私の思惑だが、竹千代は百貫で尾張に売られてきたので、また同じことが起きない保証はない。
ならば後継者候補ではなく、当主になって直接三河を治めれば人質にはならないで済む。
そんな何とも行き当たりばったりで、脳筋的な考えに基づいた行動であった。
しかし大広間の者たちが納得するわけもなく、当然のように大声で反論してきた。
「竹千代様を返すことを条件に、わざわざ謁見させたのだぞ!」
「馬鹿なことを申すな! 幼き息子にいきなり跡を継がせるなど無謀にも程があるわ!」
「幼子にまともに統治できると思うての発言か!」
彼らの意見はもっともだ。
今にも斬りかかってきそうな雰囲気だが、生きて帰るだけなら余裕である。
なので命の危険はないので、気楽であった。
連れて来ているのは竹千代だけなので、もし失敗したらおぶって逃げればどうとでもなるが、子供には刺激が強いので、恐怖のあまり味噌を漏らすかも知れないが、その時はその時である。
問題はこの交渉が成功するかどうかだが、宝くじを一枚買って一等を当てるぐらいの難易度だろう。
(竹千代君の望みを叶えるのは難しいわ。やっぱり、無理そうね)
頭の悪い自分には他に名案は思いつかないし、さてどうしようかと考える。
すると現当主の松平広忠は、家臣団の罵詈雑言が途切れた所を見計らい、それに関して堂々と尋ねてきた。
「お主は竹千代を当主に据えて、何を成すつもりだ」
てっきり一蹴されるか怒り心頭だと思ったが、冷静に判断しているのは予想外であった。
しかし聞かれたら答えるものなので、私はすぐに口を開く。
「もちろん三河を統治して、さらなる発展と繁栄を成すのよ」
当主の役目は、領地を治めることだ。
まだ同盟は結んでいないが、松平家とは将来的にはそういった関係になる予定である。
「竹千代に務まると、本当に思うておるのか」
確かに彼だけでは統治は困難だが、未来の同盟相手である織田家が支援する分には、父も問題はなしと判断するだろう。
「補佐をつければ、貴方よりも上手に統治できるわ」
この発言により、大広間の空気がさらに重くなる。
竹千代は普通よりも賢い子供だが、統治能力に関しては不明である
なので織田家から補佐役を出して、欠点を補えば領地経営は十分に可能だと考えている。
(でもまあ、ここまでかしらね)
大広間の空気は、ますます剣呑になってきている。
自分の後ろの彼が恐怖で震えているのが伝わってくる。
これ以上、強気に出るのは不味いかも知れない。
ならばプランBとして、竹千代を連れて尾張に逃げ帰ろう。
次回からはやり手の外交官に任せたほうが上手くいくかもと考えていると、松平広忠が思いも寄らないことを言い出した。
「その言葉、嘘ではあるまいな」
「私は本心でしか語らないわ」
堂々と口に出したが、既に大広間の空気は最悪なのに、一体いつまで引っ張るのか。
家臣の誰かが刀を抜けば、その瞬間に竹千代を担いで逃走するつもりだ。
しかしそうはならずに、彼は顎髭を弄りながら口を開いた。
「具体的には?」
「えっ?」
一瞬何を言われたのか、理解できなかった。
「どの程度で成果が出る」
「えっ……ええと」
ここまで突っ込んで質問してきたということは、松平広忠は竹千代に当主の座を譲ることに前向きなのだろうか。
だが本当にそれで良いのかと疑問に思うが、聞かれたからには答えなければならない。
まず考えたのは、尾張から技術や道具を盗み取り、中途半端に再現したり広めたりした。
しかしそれは失敗し、手間と時間をかけた割には収量は殆ど変わらなかった。 なので今は元の農法に戻っている。
ならば私は、これを改善するのが仕事となる。
そのようなことを思い描きながら、口を動かした。
「天候にもよるけど、来年の収穫期には成果がでる。……と思うわ」
三河は下地ができているとは言い辛い。
しかし尾張の初年度よりは、多分マシだろう。
「ふむ、そうか」
私には、松平広忠が何を考えているのかわからなかった。
しかし、交渉の展開は自分の予想とは全く違う流れに変わったことだけは、はっきり理解したのだった。




