説得
天文十七年の三月、今川と松平の連合軍は安祥城を包囲したものの、私が武将を次々と捕獲したことで指揮系統が混乱したため、夕方になって撤退を決断した。
そして私は兄の織田信広には追撃を取り止めるように説得し、承諾を得たのでまるで放たれた矢のように真っ直ぐ、敗走中の敵軍に向かって突っ込んでいったのだった。
さほど時間がかからず、私は安祥城からかなり離れた場所で、撤退中の連合軍の後方部隊に接敵した。
なので疾風のように走っていた私は慌てて急停止して、大声で呼びかけた。
「太原雪斎と話をさせてちょうだい! 戦うつもりはないわ!」
見た目は華奢な女だが、自軍の武将を散々ボコボコにされたことを思い出したらしい。
殿を任された部隊の面々に緊張が走る。
「そのような戯言! 誰が信じるものか!」
「人質を取って優位に立ったつもりか! そうはいかんぞ!」
何とも言いたい放題だが、やってることはその通りなので、何も間違ってはいなかった。
しかし全員が武器を構えてはいるが、問答無用で斬りかかってくるわけではない。
きっと、太原雪斎や連合軍が撤退するまで時間稼ぎだろう。
だがしかし、私としてはこんな所で時間を取られるわけにはいかない。
なので、思ったことをそのまま口に出した。
「素直に従ったほうが、痛い思いをしなくて済むわよ」
結局自分は気の利いた説得などできるはずがないので、いつもの脳筋ゴリ押しであった。
「おのれ! 三河武士を愚弄するか!」
「物の怪の分際で生意気な!」
当然のように会話が通じないどころか、怒りを買ってしまった気がするが、私としては無駄な戦いや犠牲は避けたいのだ。
だからこそ、無駄な抵抗をしないほうが身のためと言ったのだが、相手の神経を逆撫でしただけだったようだ。
しかしまだ、完全に決裂したわけではない。
ここは気を取り直して、あくまでも穏やかな表情で続きを話す。
「織田信広に、追撃を止めるように頼み込んだわ。
でも、もし私が安祥城に引き返して、兄に報告したらどうなるかしら?」
もちろん、そんなことをするつもりはない。
それでも殿の部隊には効果抜群で、何やら小声で相談している。
私の聴覚は優秀なので、安祥城の部隊が追撃に加わった場合の被害を考えているのが聞こえた。
人質も殺されてしまうかも知れないし、倒れる時は前のめりが三河武士の誇りらしい。
だがしかし、好き好んで散るつもりはないようだ。
ならばと、もう少しだけ強気に出ることにした。
「強引に押し通っても良いわ。でも、貴方たちに止められるのかしら?」
「そっ……それは!?」
安祥城を取り囲んだ一万を越える大軍の中を、私はまるで無人の野のように駆け回ったのだ。
彼らがどれだけ奮闘しても、時間稼ぎにすらならない。
殿部隊の敵将が、明らかに言葉に詰まっているのがわかる。
「貴方たちを排除するのは容易いわ」
尾張の剛力無双が知られており、実際にどれだけ強いかも目にしたはずだ。
なので、この説得もきっと効果的だろう。
「でも私は、戦うのは好きじゃないの。
勝つのが好き……じゃなくて、本当に太原雪斎と話をしたいだけなのよ」
確かに勝つのが好きだが、何処かの氷炎将軍のように冷酷で残忍ではない。
そして目の前の敵を排除するのは簡単であり、一足飛びに越えてて本隊を追うこともできる。
だが一万もの軍が長蛇の列になっているので、いちいち吹き飛ばしながら突っ走るのは面倒なのだ。
「もし貴方たちが邪魔をするなら、怒りのあまり頭を握り潰してしまうかも知れないわ」
私は見本を見せるために、その辺にあった岩をヒョイッと持ち上げる。
そして徐々に左右の手の力を強めていき、ミシミシと音がするようにゆっくりヒビを入れていく。
やがて岩が粉々に砕け散って地面に散らばった時に、殿を任された者たちは皆揃って青い顔になっていた。
「私に逆らう愚かさが、これでわかったかしら?」
子鹿のように足を震わせる者たちに、できるだけ笑顔で語りかける。
「でも、太原雪斎を討ち取るつもりはないわ」
彼らを心をへし折るように、一語一句丁寧に伝えていく。
「だって私が目の前の相手を殺したいと思った瞬間、既に死んでるんだもの。
今も彼が生きているのが、その証拠よ」
何処かのギャングのような物騒な台詞だが、言っていることはそこまで間違ってはいない。
その気になれば私だけでも城を落とせるし、敵将も討ち取れる。
しかし力で無理やり押さえつける恐怖政治は、不平不満を溜め込むことになる。
なので武力はチラつかせるだけで、実際には行使しないのが一番だ。
何より自分は、人を殺したくなかった。
やむを得ない事情があれば別だが、根っこが元女子高生なのもあり、いくら戦国の世に揉まれて耐えられるようになったとはいえ、嫌なものは嫌だった。
「いくら力があろうと、私一人では戦乱の世は終わらせられないわ。
だから、太原雪斎に協力してもらうのよ」
織田家が天下統一のために動いているのは、隣国である三河にも伝わっているだろう。
「私は天下を統一して、戦のない誰もが幸せに生きられる世を作りたいのよ」
「……ううむ」
目の前の武将だけでなく、この場に居る誰もが深く考え込んでいた。
なので、気持ちの整理がつくまで待つことにした。
どれぐらいの時間が経ったのか、やがてこの場の指揮官らしき人が、ポツリと口を開いた。
「正直に言うと、自分の一存では決めかねる」
それを聞いて、私はやっぱり駄目かとがっくり項垂れる。
「しかし、美穂殿は信用できる」
駄目なのかそうじゃないのか良くわからない。
なので、どういうことだってばよと首を傾げた。
「美穂殿の誠意が伝われば、いずれ太原雪斎殿とも交渉できよう」
ようは、たらい回しであった。
しかし太原雪斎は、今川での超重要人物だ。
面会するには、それ相応の手順を踏む必要があるのもわかる。
「少なくとも我らは、美穂殿の真摯な態度に心動かされた。
この場は通すし、頑張れと言わせてもらおう」
彼らなりに気を遣ってくれたのだろうが、結局私が体を張るしかないのだ。
なので、今川の所領への案内を引き受けてくれた殿部隊に感謝しながら、あと何回稲荷神様の化身を演じなければいけないのかと、内心で大きく溜息を吐くのだった。




