安祥城の危機
信長と濃姫が結婚して、尾張と美濃の同盟が正式に締結した。紆余曲折はあったが、とにかくめでたい。
これで北から攻められることはなくなり、今川と松平に集中できる。
そう考えて戦の準備を進めていたのだが、天文十七年の三月に事態が急変する。
松平家が安祥城を攻めるために、今川氏に援軍を要請したのだ。
当然のように承諾され、大軍勢が尾張の国境を越えて安祥城を奪取しようと、侵攻を開始したのであった。
私は那古野城の大広間で、息も絶え絶えな早馬に乗った兵士からそのように報告を聞いていた。
そして一段高い板張りの床の上で、腕を組んで考え込み、思ったことをそのまま口に出す。
「松平と今川が安祥城に大攻勢をかけるのは予想してたけど。
……来年のはずよね」
織田忍軍が持ち帰った情報を、繋ぎ合わせての予想である。
そして補佐である弟の信長は素早く敵の思惑を見抜いて、彼なりの解答を告げる。
「今川の太原雪斎に、一杯食わされたのやも知れぬ」
ふむと首を傾げる私だが、信長は気にせずに説明を続ける。
「孫子の兵法で、兵は拙速を尊ぶがある」
私は息も絶え絶えの兵に一先ず水を飲ませて休ませるように命じつつ、弟の言葉に耳を傾ける。
「準備に時間をかけるよりも、素早く行動して勝利を得ることが大切だと判断したのじゃろう」
三河の次代当主の竹千代は、うちが確保している。
さらに濃姫が嫁入りして、尾張と美濃は同盟を結んだ。
ならば次の標的は三河と考えるのが普通で、松平家が危機感を覚えるのも無理はない。
そして今川家も、うちを厄介な敵と認識しているし、支配地域を奪われたくないがために、援軍要請に答えるのは当然だ。
「でも、戦に備えていたのはこっちも同じよ」
尾張は経済的な余裕があるし、特に安祥城は重要拠点だ。
防衛力に関して、抜かりはない。
「確かに兄上は戦上手じゃし、安祥城の整備も万全じゃ」
だが次に、なので安心だとは弟は言わなかった。
「しかし今川と松平の連合軍が相手じゃ。
今回ばかりは、ちと危ういかも知れぬのう」
早馬に乗った兵士から聞いた情報では、敵数は一、二万だ。
忍びや斥候の第一報なので、本当に正しいかはともかく、多少の誤差があろうと大軍勢なのは明らかだった。
もう少し時間をかければ正確な数がわかるだろうが、その前に安祥城が落ちては元も子もない。
そもそも那古野と安祥は、地理的にかなり離れているので、いくら早馬と言えども時間がかかる。
状況を見て決断する頃には、全てが手遅れというのも十分にあり得た。
「援軍は出るかしら?」
私は思案している弟に尋ねる。
「安祥城の戦況次第じゃのう。
しかし父上ならば、まず平手政秀殿を援軍として向かわせるじゃろうな」
平手政秀は織田家に長年仕えている忠臣だ。
朝廷との交渉役や、美濃の斎藤道三と和睦や同盟締結を行うために、信長と濃姫の結婚を取りまとめたこともある。
さらに弟の教育係も勤めたり、どんな仕事も卒なくこなせるので、何かと重宝される家臣であった。
戦よりも内政のほうが得意なイメージはあるが、軍を率いる才覚も持っている。
なので、敵が余程の戦上手でない限りは大丈夫だろう。
「平手政秀殿が到着し、兄上と連携を取れば、連合軍を押し返せるじゃろう」
弟が自信満々に断言したし私もそう思いたいが、戦では何が起きるかわからないのが怖いところだ。
しかしそれとは別に気になることがあるので、そちらを尋ねる。
「敵の大将は誰かしら?」
「のぼり旗から太原雪斎であると思われます!」
乾いた喉を潤して少し元気になった伝令が、そのように答えた。
私は先程も信長が話題に出した、太原雪斎について考える。
織田家ではない他勢力の武将なので、うーんと首を傾げてしまう。
「今川家に仕える僧侶じゃ。戦上手で頭も切れるゆえ、油断ならん武将じゃ。
織田家の忍びに偽情報を掴ませたのも、奴の仕業じゃろう」
信長が教えてくれた頭の中で情報を整理して、もう一つ質問する。
つまり戦が起きるのは来年だと判断させたのは、太原雪斎の策らしい。
「太原雪斎は、重臣なのかしら?」
そしてそれとは別だが、私はまた別のことを質問させてもらった。
「今川義元の補佐役で、内政や交渉や軍事にと多方面に活躍する切れ者じゃ」
重臣どころか、今川家の大黒柱的な存在であった。
それを聞いてなるほどと頷いた私は、次に思ったことをそのまま口に出した。
「つまり私にとって、弟の信長のような存在なのね」
「あっ姉上! 急に変なことを言わんでくれるか!」
若干照れている弟は、取りあえず置いておく。
そして、今まで聞いた様々な情報を吟味して、自分の取るべき方針を決める。
そこであることに気づいた私は、良い笑顔で堂々と発言した。
「鴨が葱を背負って来てくれたわ!」
「「「えっ?」」」
大広間に集まっている者たちは、唖然とした表情を浮かべていた。
なお、尾張では近年、合鴨農法が試みられている。
それに、米以外の作物として葱の栽培も始まっていた。
ゆえに、ことわざの意味も通じると思ったのだが、どうやらまだだったらしい。
そこで私はコホンと咳払いをして、その意味をたどたどしく説明していく。
「うまいことが重なったり、お人好しが利益を運んできたりする意味で──」
若干脱線したものの、簡単に意味を伝えてから、私は続きを話す。
「つまり、うちに攻めてきた太原雪斎を捕らえるのよ」
「ああ、そう言うことか」
信長がすぐに理解してくれて、姉としては嬉しい限りだ。
これなら織田家の次期当主に交代しても安心だと心の中で呟き、気を取り直して次の説明に入る。
「喧嘩に勝つコツは、相手を泣くまでぶん殴ることよ!」
松平と今川は織田の敵である。このままでは、とても会話にならない。
斎藤道三が濃姫を嫁がせて、同盟が成立したのは奇跡のようなものだ。
ならばどうするかと言うと、とあるアニメで実践していた高町式交渉術を行うのだ。
「安祥城はうちの領地で、地の利はこちらにあるわ」
重要拠点なので、防衛能力はかなり高い。そう簡単に落とせる城ではないのだ。
「天文九年までは、三河の領地じゃったがのう」
そして信長の言ったように、安祥城は最近までうちの物ではなかった。
まあそれはともかく、今は地の利があるのは確かだ。
なので、相変わらず思いつきで行動する私は堂々と宣言した。
「今川の大将、太原雪斎を捕らえるわ!」
鴨が葱を背負って来きたら、美味しくいただかせてもらうのだ。
「その後は今川義元の拠点に乗り込んで、直接交渉を試みるわ!
上手く行けば、三河の解放も夢ではないわよ!」
あくまで上手く行けばであり、失敗すれば酷えことになるのは確実だ。
そこで当然のように、弟の信長は正論で返してきた。
「もし今川家と交渉できたとして、そんな重要な役目を誰が行うのじゃ?
下手をすれば火に油を注いで関係を悪化させたうえ、首だけで帰ってくるぞ」
やはり弟に口では勝てないため、思いつきの案は出しても、すぐにグウの音もでなくなってしまう。
私は溜息を吐いて、仕方ないかと諦めつつ言葉を返す。
「言い出しっぺの私がやるわ」
正直なところ、やり手の今川義元や太原雪斎と渡り合うのは難しい。
しかし、行って帰って来るだけなら余裕であった。
酷いことになるとしても既にお互いの関係は冷え切ってるので、駄目元でもやってみる価値ありますぜだ。
「確かに姉上なら、たとえ火の中水の中でも屁でもないじゃろうな」
弟が腕を組んで思案しながら呟いたが、それを聞いた私は少々カチンときた。
稲荷神様の御加護で頑丈なのは確かだが、それでも年頃の女性だ。
普通ならば死地に向かう姉を、弟は気遣うものではないのか。
「交渉から帰ったら、信長は一発殴るわ」
「ひえっ!?」
いつもの流れで弟を一発殴る宣言をして、安祥城に援軍を送ることを正式に決定する。
なお、軍と言っても那古野城から派遣するのは自分一人だが、細かいことは良いのだ。
そして父である織田信秀には、いつも通りの事後承諾である。
私にはある程度の権限が与えられていて、信頼の表れか半ば諦めているのかは知らないが、自由にやれとも言われている。
単独行動をして何も問題はないので、敵だけでなくこっちも、兵は拙速を尊ぶを実行するのだった。




