人質
天文十六年の夏、私は熱田の加藤順盛の屋敷に向かっていた。
その理由は、百貫で人質として売られた松平竹千代に会うためだ。
古渡城での会議の最後に、顔合わせしておくのも良いだろうと父が言ったのだ。
なお呼び出した理由は、人質が増えたことを伝えるためだろうが、那古野と古渡の距離は近いので、話し合いは割と頻繁に開かれている。
城主である私の腰が軽いし、報連相は大事なので何も文句はなかった。
とにかく熱田の加藤順盛の屋敷にやって来た私は、事前に先触れを出しておいたので、門番に用件を伝えるだけですぐに通してもらえた。
奥の部屋に案内されて、家主に無難な挨拶とお土産を渡す。
そして、竹千代の所在を改めて尋ねる。
「それなら屋敷の庭に居ると思います。案内しますか?」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
加藤順盛に礼を言って席を立ち、部屋を出た私は庭を目指して廊下を歩いて行く。
途中で縁側に出て竹千代を探すと、信長が池の前で知らない子供と一緒に、蛙を捕まえて遊んでいるのが目に入る。
普段は大人びていて賢い弟だが、年齢的にはまだ子供と言える。
なので時々はっちゃけた行動を取って、父や家臣たちを困惑させる信長ではあるが、付き合いが長い姉は慣れたものだった。
取りあえず玄関で草履を履いて、私も庭に出て弟たちに近づく。
周囲には護衛の他にも、見知らぬ若い武士が数名居た。
しかし遠巻きに見ているだけで特に動きはなかったので、子供の連れなのだろう。
「姉をほっぽり出すとは、良い度胸ね」
「家主への挨拶だけじゃろ? ならば、儂は必要あるまい」
加藤順盛とはお互いに面識はあるが、さほど親しくはない。
なので、無難な挨拶に落ち着いたし、向こうもわざわざ話題を膨らませようという気はなかった。
「まあ、確かに一人で十分だけど」
挨拶とお土産で無難に済ませるに限る。
来訪の目的は竹千代との顔合わせなので、そこに家主は居なくても良いのだ。
「それで、そっちの子供は?」
「此奴が竹千代よ」
一般庶民より質の良い服装を着ていて、育ちも良さそうだ。
だがそれ以外はこれと言った特徴もなく、私には普通の子供にしか見えなかった。
しかし彼は、若干怯えているように感じる。
人質として送られてきたのだから、いつ殺されるかわからない。
なので、怖がるのも当然だと思い至った。
「じゃあ、何で蛙を捕まえてたのかしら?」
それはともかく、信長と竹千代が庭で蛙を捕まえようとしているのが気になった私は、思ったことをそのまま尋ねてみた。
「竹千代は六歳じゃが、蛙を殆ど捕まえたことがないからじゃ」
小さい頃から野山や町中を走り回っていた私や信長にとって、蛙や虫を捕まえるのは、殆ど日常になっていた。
「あり得ないわね」
「そうじゃろう?」
なので私は、弟の言葉に小さく頷いて同意を示した。
だが信長は姉の影響を強く受けているため例外で、武家の子供は本来虫取りなどしないのかも知れない。
そこで私は彼に、試しに尋ねてみた。
「竹千代君は、蛙や虫は捕まえたりはしなかったの?」
彼は一瞬、ビクッと体を震わせた。
しかし少しだけ考えた後に、おずおずと口を開いた。
「かっ監視が厳しくて、あまり自由に動けなかったので」
「ふむ、賢いわね」
まだ六歳だというのに、はっきりした受け答えだ。
戦国時代は成人や独り立ちが未来より早いが、それにも限度がある。
その点から言えば、竹千代も信長のような麒麟児に思えた。
「麒麟児の大売り出しかしら?」
「何じゃそれは?」
「貴方と同じく、竹千代君も頭が良いってことよ」
今の時代に大売り出しがあるかは置いといて、まだ一言しか話していないが才能に溢れた子供に思えた。
しかし彼は松平家の跡取りなので、敵に回られたら厄介なことこの上ない。
「竹千代君は、敵に回すと厄介そうね」
「姉上、口に出ておるぞ」
信長が呆れた顔でツッコミを入れるが、竹千代は明らかに青ざめていた。
対応次第で殺されるとでも思っているのだろうが、私は安心させるように微笑みながら、静かに話しかける。
「私は人殺しは嫌いだから、今はまだ竹千代君には何もしないわよ」
「つまり、必要になれば躊躇せずに殺すと言うことじゃ」
いつものことなので信長の鋭い指摘は無視して、私はさらに腰をかがめて竹千代と目線を合わせる。
「むしろ竹千代君を守ってあげるわ」
「ほっ、本当ですか?」
「うん、私は嘘はつかないわよ」
嘘をついても秒でバレるので、つけないと言うのが正解だ。
しかし弟も流石に、今ツッコむのは野暮だと思って空気を読んだのか、黙っていてくれた。
「それに私としては、竹千代君に三河を治めて欲しいわ」
織田家と繋がりのある彼のほうが、私にとって都合が良いのだ。
「織田家に従えと、暗に命令しているのでしょうか?」
彼の返答を聞いて驚く。
六歳の頃の私は尾張のお転婆姫で、ここまで賢くなかった。
なので竹千代は明らかに頭の回転が早く、察しも良いのだ。
「やっぱり賢いわ。六歳の頃の私を、完全に越えてるわね」
ちなみに竹千代の言葉は、この上なく正しかった。
だからと言って力尽くで従わせる気はないので、はっきりと否定させてもらう。
「違うわ。織田と松平は対等よ」
「意味が、……わかりません」
竹千代は本当にわからないようで、首を傾げている。
しかし私は構わず、説明を続けた。
「戦乱の世を終わらせるために、織田家に力を貸して欲しいのよ」
それを聞いた彼は、目を白黒させて私を真っ直ぐに見つめてくる。
「松平家に助けを求めるのですか?」
「そうよ。友人に上も下もないでしょう?」
互いに尊重し合えるのが理想だが、戦国時代にそれは難しい。
だが私は諦める気はなく、松平竹千代に笑いかけて静かに手を伸ばした。
「戦乱を静めて争いのない世の中を作るため、貴方の力を借りたいの」
彼は差し伸べられた手を見て、明らかに戸惑っていた。
しかし、やがておずおずとだが口を開く。
「自分はただの人質で、何の力も持っていません」
確かに竹千代は、松平家の跡取りではあっても人質だ。
お供を少数連れてはいるが、三河を治める力は持っていない。
何より松平家には今代の当主がいるので、彼の出番はなかった。
「三河は今川の庇護下にあります。たとえ戻れたとしても、自分は歓迎されない──」
「そんなことない!」
私は大声を出して、己を卑下する彼の両肩を掴んだ。
「竹千代君は、松平家の次代当主よ!
それに家臣や領民も、今川の支配から解放される日を待ち望んでるはずよ!」
何の根拠もないが、他人の土地で好き勝手にしている今川家は許せるものではなかった。
荒れ果てた三河に手を貸しているだけかも知れないが、それはそれ、これはこれである。
今の私には判断できないし、その場のノリと勢いでとにかくゴリ押す。
「織田家も力を貸すから、今川を追い出すために頑張ろうよ!」
私は協力する気満々だが、もちろん行き当たりばったりであり、父には何の連絡もしていない。
「姉上、またそんな安請け合いを──」
「黙らっしゃい!」
渋い顔で口を挟んだ弟を一喝して黙らせて、もう一度真っ直ぐ竹千代を見つめる。
確かに私はたびたび暴走して、引っ込みがつかなくなることも良くある。
だが口にした以上は有言実行であり、あとはもう成るように成れだ。
「竹千代君はどうしたい? 人質のままでいいの?
三河に帰りたくないの? 今川に支配されたままで良いの?」
立て続けに質問されて、彼は明らかに戸惑っていた。
しかも若干顔が赤いように見えるので、これは怒りに火をつけたのかも知れない。
「じっ、自分は──」
最初は、ボソボソとしか聞こえなかった。
だが、やがて竹千代は覚悟を決めたのか、若干照れながら真っ直ぐに私の顔を見つめてくる。
そして、息を吸って大きな声を張り上げた。
「三河に帰りたい! 母上に会いたいです!」
「偉い! 良く言えたわね! 流石は男の子だわ!」
取りあえず勇気を出して頑張ったことを褒めるために、私は竹千代君を無造作に抱き寄せて優しく頭を撫でた。
「はっ……母上」
「えっ?」
竹千代は嫌がりもせず、むしろ身を委ねてきた。
しかし今、何か変なことを呟いた気がする。
だが思えば彼は、三歳の頃に母と生き別れになったのだ。
そして年齢を加算した私はと言えば、子供の一人や二人居てもおかしくなかった。
なので緊張が解けて泣き出した竹千代を優しくあやして、子供を持ったことはないが、多分こういうものなのだと前向きに受け止めた。
「……姉上の人誑しが」
ポツリと呟く信長だったが、稲荷神様の御加護で強化された聴覚は聞き逃さなかった。
「信長! あとでボコるから覚えてなさいよ!」
「ひえっ!?」
取りあえず当面の目標として、今川の支配から解放する。
そして、三河に松平竹千代を帰して当主を継がせる。
その後は、母上と再会させる。
もし軍事同盟を結べたら、上洛中の留守を任せることができるし、天下統一に近づくのは間違いない。
美濃攻めのような私利私欲や怨恨ではなく、竹千代を確保しているので大義は我にありだ。
なお、人質を百貫で買った時点でガバガバな理論だ。
しかし、竹千代は松平家の次期当主なので、ゴリ押しが通用するのは幸いであった。




