天文十六年
天文十六年になり、尾張の国力が順調に高まっていた。
しかし危機感を抱いたからか、周辺諸国はきな臭くなる一方だ。
ちなみに今の私は、那古野城と周囲一体の領地経営を任されている。
戦国時代には女性の武将も少ないが居るだろうが、まさか自分がその一人になるとは思わなかった。
確かに戦闘能力に関しては、稲荷神様の御加護のおかげで問題なしだ。
経営に関しても元女子高生の知識があれば、猪武者よりは少しだけマシだろう。
ただ、元の性格は脳筋で大雑把だ。
計算ミスや不正、横領は見逃さないように気をつけているが、それ以外が適当になるのは避けられなかった。
けれど今の所は目立った失敗もしていないし、何より領民がそれを望んでいる。
それに優秀な補佐が居れば回していけるので、まあ仕方ないかなと気楽に構えていたのだった。
しかし、天文十六年の夏に事態が動いた。
父である織田信秀から、直接会って話したいことがあるので古渡城まで来るようにと、書状が送られてきたのだ。
ここ数年で尾張全体に浸透した略式漢字と平仮名で書かれているので、私でも読むことが出来るのはありがたい。
那古野城の大広間、その一段高い木の床に座布団を敷いて腰を下ろして、私は口元に手を当てて思案する。
「お父様から呼び出しとは珍しいわね。何の用かしら?」
それに対して、私の補佐である吉法師……ではなく、元服して織田三郎信長に名を変えた弟が答える。
「最近になって、松平と今川が不穏な動きをしておる。用件はそれではないか?」
確かに懸念事項ではあるが、書状の連絡でも片付くことだ。
しかし、前々から思っているが何とも不自然であり、私は弟をじっと見つめる。
「どうしたのじゃ?」
視線に気づいた弟が疑問を口にしたので、私は小さく溜息を吐く。
「逆だったかも知れないと思ったのよ」
織田家の当主を継ぐのは信長だ。うろ覚えだが、歴史の教科書にも書いてあった。
何より、父もそう宣言している。
だが現実には、何故か私の補佐をしている。能力的にはどう考えても弟のほうが優れているにも関わらずだ。
自分が色々とやらかしているせいで、歴史が変わった影響だろうか。
しかし来るべき日になれば、弟は織田家当主になる。
「……まあいいわ。古渡城に行きましょう」
ならば別に問題ないかと、私は気持ちを切り替えた。
「林さん、留守は任せるわ」
「はっ! お任せを!」
弟が補佐に付いても、林秀貞が目付役なのは変わっていない。
彼はどちらかと言うと軍人よりも政治家向きではあるが、留守を任せるぐらいなら大丈夫だ。
「銀子は、出立の準備を頼むわ」
彼女は、織田忍軍の百地三太夫の右腕的存在である。
実力至上主義で情け無用の厳しい世界だが、そんな中でも頭一つ以上も飛び抜けていた。
「先触れもあらかじめ飛ばして、準備も整ってございます!」
「いつもながら流石ね」
元々才能があったのか、彼女は忍び以外も何でもできる。
なので、林さんと同じく頼りにさせてもらっている。
しかしそんな彼女にも欠点があり、目付役である林秀貞にライバル心を持っているのだ。
そこだけが玉にキズではあるが、何を張り合う必要があるのだと、最近まではわからなかった。
だがこの前偶然、林さんが人気のない場所でお腹の辺りの服を得意気にめくりあげていた。
そしてそれを、銀子が羨ましそうに見ている場面を目撃してしてしまったのだ。
もしかしなくても男と女の関係だったのかと、恋愛に鈍い私でも容易に察しがついた。
なので年の差カップルの邪魔をしては悪いと考えて、早足にその場を立ち去った。
きっと愛を超越すればそれは憎しみとなるや、さらに宿命になったりと、二人の関係はとても複雑のだろう。
この歳になっても恋愛経験ゼロの私はそう納得して、口出しせずに成り行きに任せることにしたのだった。
それはともかくとして、私は信長に顔を向けて声をかける。
「信長は行ける?」
「ああ、儂はいつでも出られるぞ」
「なら、行きましょうか」
信長呼びも、弟が認めている。
織田殿や信長様と口にすると、気持ち悪いので止めてくれと言われたのだ。
昔から呼び捨てが当たり前だったからか、そっちに慣れてしまったらしい。
まあ彼が当主になったら改めないと不味いが、それまでは別に良いかと気にしないことにした。
何より今は、父の書状通りに古渡城を目指すのが先決だと、席を立つのだった。
弟と並んで馬を走らせて、古渡城にやって来た。
私たちは門番を顔パスで通過して、父の待つ部屋に案内してもらう。
そこで案内役が確認を取ってから襖を開けて、二人揃って入室する。
い草の円座ではなく柔らかな座布団が敷かれていたので、迷うことなく指定の場所に座らせてもらった。
「織田美穂、ただ今到着致しました」
いつも通りの挨拶をして、父の顔を真っ直ぐに見つめる。
小姓は居なかったので、内密な話だとすぐに察する。
「うむ、良く来てくれた」
書類仕事の途中だったようで、机の上には開いたままの書状が置かれていた。
パッと見た感じはミミズののたくったような字だったので、私はすぐに他所から送られてきたのかなと何となく察した。
それはともかく、父は早速本題に入った。
「実は先日、戸田康光から書状が届いたのだ」
しかし私は、それが何処の誰かがさっぱりだった。
なので、弟の信長に小声で尋ねると、隣の三河国の武将だと答えが返ってきた。
父は相変わらずだなと呟き、笑いながらこっちを見ている。
そして自分が理解するのを待って、続きを話した。
「その者は、今川に人質として差し出すはずの松平竹千代を、永楽銭で百貫文で織田に売り渡したのだ」
「血も涙もありませんね」
人を銭で売るのは酷い話だが、戦国時代では良くあることだ。
強い者が勝ち、弱い者は負ける。戸田康光も、自らの家を生き残らせるために必死だったのだろう。
「それでお父様は、どうしたのですか?」
私は続きが気になったので、父に尋ねた。
「戸田康光には、約束通りの銭を支払った。
これ以上、手を貸す理由はない」
父はバッサリと斬り捨てるが、彼の居城は田原城だ。国境に近いとは言え、実際にはもろに敵地である。
もし手を貸すなら、松平や今川と敵対することになる。
父としては戸田康光には恩義も大義もさほどないらしく、戦を起こして国力を消耗するのは愚策だと判断した。
無情だとは思うが、大を得るためには小を切り捨てるのは良くあることだった。
もし岡崎城を攻め落とされた際の降伏の証として、竹千代を差し出すならわかるが、今の尾張は他国に侵略する必要も理由もなかった。
内政に尽力すれば、周辺諸国を圧倒できるのだ。
それに松平家の領地は今川家に好き放題にやられていて、荒廃が酷く進んでいる。
もしうちが戦に勝利して支配したとしても、立て直すためにかなりの投資が必要になるし、個人的には相性が最悪な浄土真宗までセットでついてくる。
さほど美味しくないどころか、下手をすれば腹を下しそうであった。
何にせよ人質として松平竹千代を確保してしまった以上、これまで以上にお互いの関係に気を使う必要がでてくるのは間違いない。
私は、面倒事が向こうからやって来るなんてと嘆きを漏らして、大きな溜息を吐くのだった。




