策略
父から殿を命じられた私は、すぐさま友軍を救出して稲葉山城の包囲網から脱出した。
そのまま最後尾に留まり、追撃してくる敵を迎え撃つ。
斎藤道三には、逃げる者は追わないようにと取り決めをしているが、実際には手柄欲しさに襲いかかってくる者ばかりだった。
(向こうも手を焼いてるのかしら?)
織田家にも持て余している家臣が居るが、向こうも人材整理の場として使っていると言うことだろうか。
私はそんなことを考えながらも、襲いかかってくる相手は全て敵なので、情け容赦なくボコボコにしていった。
私たちは尾張に生きて帰るために、撤退戦を続けていた。
その途中で林さんが、のんびりと地面を歩いていた私に向かって、心配そうに尋ねてきた。
「お疲れのご様子ですが、馬に乗られますか?」
私は彼のほうを見ずに、周囲を警戒しつつ口を開いた。
「心配無用よ。徒歩のほうが早いし、疲れないわ」
腹は減るが。肉体の疲労はないのだ。
しかし、精神は元女子高生のままなので、夜通し命をのやり取りを続けていれば、気が滅入ってくるのも当然と言える。
それでも自分はまだマシなほうで、他の者はそうはいかなかった。
途中で何度か小休止を挟みながら撤退を続けたが、負傷者は増えるばかりだ。
父が途中の小城や砦の部隊の包囲網を蹴散らして、囲みから逃れた別の織田軍に追いついたので、徐々に周囲の兵が増えて、同時に移動速度も遅くなってきた。
しかも疲労が限界に達したようで、とうとう負傷兵の一人が足を止めてしまう。
その場にへたり込んでしまった彼を追うように、それに続いて次々と倒れていく。
私以外の者は、殆ど気力だけで苦境に耐えていた状態だったのだ。
なので、これ以上は無理そうだと判断した私は、周りの者に大声で呼びかけた。
「しばらく休憩を取るわ! 負傷者の手当てと食事を準備をしなさい!」
「了解致しました!」
林さんが元気を良く返事をするのを聞き、私はさらに言葉を重ねる。
「敵は追い払ったから、追撃の心配はないわ!
それでも念の為に私が周りを警戒しておくから、今は安心して休みなさい!」
そう発言すると、皆の表情が明らかに安堵したものに代わる。
そして、意気揚々と食事の準備に取りかかる。
さらに衛生管理や家庭の医学を広めているため、傷口に尿や馬糞を塗りたくるなどということはせずに、負傷者の汚れを落とした後に、清潔な布を巻いていく。
火を起こすと敵に見つかる恐れもあるが、彼らは私が一方的にぶっ飛ばしたのだ。
一対多数でも傷一つ与えられず、逆に怪我人が続出するだけだと体でわからされた。
おかげで今では追撃も止んで、道中の小城や砦に立て籠もり、入り口を固く閉ざしている有様である。
兵たちが簡易の竈を作っているのを眺めながら、私は万が一に備えて耳を澄ませて警戒していた。
今の所は動物や虫の声しか聞こえないので、大丈夫そうだ。
やがて、簡易の竈に火が付いて、鍋の中に水と味噌、干し野菜と肉、乾燥米を入れて煮込まれていく。
辺りに良い匂いが広がり、兵たちだけでなく、自分の腹から虫の音が聞こえる。
そんな時に、こちらに近づいて来る微かな足音を捉えた。
相手は一人だけらしく正体に気づいた私は、さり気なく茂みに寄る。
そして近くの大木に背中をもたせかけたまま、おもむろに口を開いた。
「銀子、何かあったの?」
私が小さく呟くと、背後の茂みが微かに動いた。
そして百地三太夫の右腕的存在にまで出世した、陽炎銀子の声が聞こえてきた。
「美穂様に、報告があります」
声の調子から、銀子が緊張している様子が伝わってくる。
思わず私も動揺しかけたが、ここで狼狽えても事態は好転しない。
「……手短にね」
何とか呼吸を落ち着けて、続きを促した。
「斎藤道三が、木曽川の上流に堤防を築いておりました。
濁流で織田軍を押し流す策と思われます」
斎藤道三との間には情報を流す見返りとして、逃げる織田軍には追撃は行わないという取り決めがされていた。
だが前々から感じていたが、向こうは織田軍を殲滅する気満々なのは明らかだった。
そこでふと思い出したが、行きに渡った木曽川は歩いて向こう岸に渡れるほど、水かさが減っていた。
橋や渡し船を使わずに済むので、運が良いと思っていたが、もっと怪しむべきであった。
稲葉山城まではトントン拍子に行けたので、こちらの油断もあったのだろう。
わざと奥まで誘い込んで挟撃で叩いた後に、敗走した織田軍を濁流で押し流す。
そんな二段構えの、情け容赦のない策略を仕掛けていたのだ。
「お父様は無事なの?」
その質問に対して銀子は一瞬返答できなかったが、一呼吸置いて震えながら答えてくれた。
「斎藤道三に、追手を大勢差し向けられました。
ゆえに確実に情報を持ち帰るため、部隊を分けて逃走しました」
織田の忍者がそう簡単にやられるとは思わないが、斎藤道三にも、同じような手勢を持っているのだ。
しかも備えは万全だと考えれば、今はかなり不味い状況かも知れない。
「他の忍びの、その後はわかりません。
無事ではあるでしょうが、足止めされている可能性が高いと思われます」
敵の重要拠点なので、当然警戒は厳重だ。
特に水攻めが阻止されるのは避けたいだろうし、美濃攻めで参加した織田忍軍の中で、報告に来たのは銀子一人だけだった。
「与えられた任務も満足に果たせず! 申し訳ございません!」
茂みの向こうから、銀子の恐れや震えが伝わってくる。
だがしかし、私は全く怒っていなかったので、穏やかな表情で口を開いた。
「謝る必要はないわ。貴女たち忍びは、本当に良くやってくれているもの」
「……美穂様」
実際に彼女たちはとても優秀だし、織田家のために尽くしてくれている。
もし他勢力に引き抜かれたら、内部情報を漏らされてこっちの手の内が全て丸裸になる。
考えうる限り、最悪の事態が置きてしまう。
それは置いといて、とにかく銀子たちに過失はないことを、私は堂々と告げる。
「銀子は私に、重要な情報を伝えてくれたわ」
茂みの向こうの銀子の顔は見えないが、聴覚で潜んでいる場所に見当をつける。
なお、内心では棟梁の百地三太夫も連れてくれば良かったと後悔したが、彼はとても優秀なので織田忍軍のまとめ役を任せており、容易には現場に出られない。
なので仕方ないと言えるし、今さら嘆いても状況は何も変わらない。
そこで私は銀子を安心させようと、静かに微笑みかけた。
「だから、後は任せなさい」
せっかく届けてくれた貴重な情報を、無駄にするわけにはいかない。
「美穂様! 私もお供致します!」
「駄目よ。銀子はこの場に残って、遅れて来た忍びと合流するの。
そして、皆を守ってちょうだい」
今の所は大人しいが、敵がまた襲撃してこない保証はない。
それに追手を振り切った他の忍びも、集合するだろう。
ならば銀子に伝言役として残ってもらうのは、悪い判断ではない。
(銀子に合わせてたら、間に合わないかも知れないしね)
いくら優秀な忍びとはいえ、私のほうが足が速い。
父の元に他の忍者が辿り着けば、心配は杞憂に終わるしそれが一番良い。だが、可能性は低いと思った。
そして大きな溜息を吐き、この策によって被る被害を考える。
「濁流で織田軍は倒せるでしょうけど。
下流域も甚大な被害を受けるなんて、本当にやってられないわ」
どれ程の水量で押し流すのかは知らないが、織田の大軍を飲み込むことを前提にして準備しているのだ。
ならば、下流域も酷い有様になるのは容易に想像できる。
私が心の中で嘆いていると、少しだけ元気を取り戻した銀子が声をかけてきた。
「やはり、豊穣の美穂様でございますね」
「だから、その名で呼ぶのは止めなさいって」
味方の損害だけでなく、民衆や領地も一緒くたに考えてしまう。
そんなちょっと変わった発言をするたびに、豊穣の美穂様とからかわれる。
正直照れ臭いったらないので、両手を軽く叩いて話題を変える。
「私は必ず生き残るし、斎藤道三の策を阻止して、お父様と織田軍も救うわ」
決意表明のようなものだが、これから取るべき行動を口に出して考えを整理する。
「だから銀子、また後でね」
「はい! 美穂様! どうかお気をつけて!」
私は小さく頷いて、全力で駆け出した。
幸い織田軍は撤退中なので、それを追っていけば道に迷うことはない。
だが、曲がりくねった山道を駆けるだけでは、きっと間に合わない。
何となくだが、父の本隊は木曽川に到達する間際だろう。
私は走りながらそう考えて、半ばヤケクソ気味に大声で叫んだ。
「斎藤道三! 織田美穂を舐めんじゃないわよ!」
稲荷神様の御加護によって強化された五感を活用する。
曲がりくねった山道は通らずに、織田軍本隊に向かってほぼ一直線に、山の斜面を突っ切っていく。
立ち塞がる茂みや木々などお構いなしに、とにかく走り、飛び、転がり、全力で駆け抜けるのだった。




