斎藤道三
<斎藤道三>
天文十三年の夏、草木も眠る丑三つ時に儂は誰かに肩を揺すられた。
そして、深い眠りから目覚める。
若干寝ぼけながらも、一体何事かと起こした者に視線を向ける。
すると木枠の窓の隙間から差し込む月明かりに照らされて、思わず見惚れる程の妖艶な美女が、自分のすぐ近くに座っているいることに気づいた。
見たところ十代半ばと言ったところだが、何とも女の色香を感じさせる立ち振る舞いで話しかけてきた。
「貴方が斎藤道三様で、間違いはありませんか?」
まだ起きたばかりで頭がはっきりせず、一瞬どう答えたものかと迷う。
しかし、見知らぬ女は沈黙が何よりの答えだと判断したようだ。
自らの胸元に静かに手を入れて、そこから一枚の書状を取り出した。
「こちらをお読みください」
おそらくは男を喜ばせるために計算された動作だろうが、やはり雄の本能には抗えない。
儂は身を起こしながらも視線は胸元に釘付けになり、ゴクリと生唾を飲む。
だからなのか、差し出された書状を無警戒に受け取ってしまった。
しかし自分を殺すのが目的ならば、彼女はとっくに達成しているはずだ。
つまり儂に内密な話があるのだと判断し、決して色香に惑わされたわけではないと心の中で言い訳をする。
何はともあれ渡されたからには、文を読まなければ始まらない。
幸い今夜は満月なので、明かりを灯さなくても窓から差し込む月明かりで文字は辛うじて見える。
なお、書状の読み書きは専門職である右筆の仕事だが、儂でも時間をかければ読むことぐらいはできる。
そう思っていたのだが、少し目を通しただけで儂は大いに混乱して、挙句の果てに溜息を吐いてしまった。
「……読めぬな」
女から渡された文を開くと、そこには今まで見たこともない文字が書かれていたのだ。
儂らが普段書いている字の名残はあるものの、初見ですぐに解読できるものではなかった。
目の前の彼女は何処かの忍びであろうが、若干頬を引きつらせて口を開いた。
「もしよろしければ、私がお読みしても?」
見知らぬ女から渡された書状を、代わりに読んでもらうのもどうかと思うが、話が進まなければ双方が困るのだ。
「頼む」
耳に入ってくるのは虫の声ぐらいで、目の前の女以外に人の気配はない。
ならば、助けを呼んでも無駄だろう。
それに儂が普段から隠し持っていた懐刀も見当たらず、怪しい動きをしたら即黙らされるのだと、本能的に理解した。
ゆえに今は何らかの突破口を見つけるために、指示に従うのが得策だろう。
「では、失礼しますね」
そう言って美しい女は儂から書状を受け取り、内容を確認して口を開いた。
色々と堅苦しい表現が使われていた。
それでもしばらく聞いた限りでは、内通の誘いであるのは明らかだった。
しかし、斎藤家に美濃攻めの情報は漏らしても、主君は織田家のままだ。
さらには書状の送り主も明かされていないので、信じられる要素は殆どない。
むしろ罠や計略だと考えるのが普通であり、儂は目の前の女にはっきりと尋ねた。
「この書状が事実であるという証拠はあるか?」
不確かな情報を疑いもせずに信じるほど、耄碌してはいない。
確かに美濃と尾張は長年争っているため、いつかは攻めてくるだろう。
しかしこれが織田の計略ならば、指示通りに動いた斎藤家のほうが危うくなる。
(何より、近々美濃に攻め込むだけではのう)
もっと長文ではあったが、まとめてしまえばそれだけと言える。
あえて曖昧な情報を流すことで、混乱や疲弊させる策と疑うのも無理もなかった。
そのために儂は、月明かりに照らされる美女を見つめて堂々と問い質したのだ
「主に誓い、事実であるとお答え致します」
忍びとは主の命令を第一に考えるとは聞いているし、儂もそう思ってはいる。
だが、偽りの証言を口にせよと指令を受ければ容易に嘘をつけるため、何の証拠にもならない。
「そなたの主に誓われてものう」
儂は顎髭を弄りながら思案していると、女が妖艶に微笑み、囁くように耳打ちしてくる。
「それでは、今年の秋に織田軍が美濃に攻め込むと言えば、斎藤様は信じますか?」
いつ攻めてくるかがわかれば、戦に備えて織田家の裏をかける。
しかし、秋となると猶予は殆ど残されていなかった。
「それは本当のことか?」
「私は事実を申しているつもりですが、証拠はございません」
せめて、この策の仕掛け人がわかれば判断材料の一つになる。
だが、彼女が口を割るとは思えなかった。
「悩ましいことだ」
尾張に忍びを送り込んでいるし、警戒もしていた。
それでも具体的に、いつ何処を攻めるのかと特定するのは殆ど不可能である。
なので儂は、駄目元で女に尋ねてみた。
「美濃の何処を攻めるかは、わかるか?」
「稲葉山城でございます」
彼女が淀みなくはっきりと答えた内容は、儂に冷や汗をかかせるには十分だった。
「なるほど、儂の居城か」
織田家が狙うとすればここしかないと予想はしていたが、実際に告げられるのは何とも嫌な気分である。
しかし儂は気を取り直して、もう一つ尋ねた。
「仮に、この情報が本当だとしてもだ。
そなたの主は何故、織田家を裏切るような真似をする」
敵の計略である可能性は捨てきれないが、儂はそれを仕掛けた忍びの主人が何を考えているのか、理解できなかった。
だからこそ判断をする材料として知ろうとしたのだが、目の前の女は一瞬視線を泳がせた。
しかし、やがて諦めたように小さく息を吐いて、こちらに真っ直ぐ向き直る。
「主が目指すのは、天下統一でございます」
きっとこれは、儂が知っても問題のない情報なのだろう。
「その噂は、美濃にも流れてきておる」
稲荷大明神様が、織田信秀の娘に加護を授ける代わりに、天下を統一するようにと命じた。
そのような噂をわざと広めて、求心力を高めているのは知っていた。
「それに主にとっての斎藤様は、倒すべき敵ではありません」
これには驚いたが、儂は少しだけ思案する。
「織田信秀とは何度も命の奪い合いをしたが、それでも敵ではないと申すか」
宿命の好敵手と言っても過言ではないほど、信秀とは何度も戦場で相見えた。
だが、女の主は織田家に属していながら、倒すべき敵ではないと言い切ったのだ。
何故そのような結論に至ったのかはわからないが、これはなかなか面白い人物だと、俄然興味が出てきた。
しかし、だからと言って味方でもないのだと、女はさらに言葉を重ねる。
「ですが、もし主が天下統一の道を歩み始めた時に、斎藤道三様が目の前に立ち塞がれば。
……問答無用で叩き潰すでしょう」
あまりにも真剣な表情を浮かべる忍びに、儂は何も言えなくなる。
だがそれでも、すぐに呼吸を整えて冷静さを取り戻す。
「あいわかった。今はまだ、儂は敵ではないのだな」
「その通りでございます」
満足そうに小さく頷く忍びを見て、私はある考えに至った。
これまでの会話から、彼女の主について見当がついたのだ。
尾張で様々な改革や新事業を行っているのは、有名な話だ。
しかしこれはまだ、天下統一への歩みではないのだ。
そこに妙な引っかかりを覚えて思考を巡らせた結果、とうとう主の正体を突き止めた儂は、不敵に笑った。
「そなたの主は、吉法師だな」
彼はまだ跡継ぎ候補でしかなく、本当の意味で動き出すのは織田家の当主になってからだ。
ゆえに今はまだ、天下統一を目指してはいるが、歩き出してはいないことになる。
情報をわざと流したのも、いざ自分が上に立った時のために、目障りな家臣をこの機会に排除しておくためだろう。
儂の発言に対して、女は何も答えなかった。
ただ、妖艶な微笑みを浮かべるだけだ。
忍びが重要な情報を漏らさないのは当然のため、構わず続きを話した。
「織田家の麒麟児の噂は、美濃にも届いておる。
姉を影から操り、求心力を高めるとは、なかなかに上手い策だ」
他国から見れば愚かな姉を裏から操り、都合良く利用しているのが丸わかりだ。
今までは織田信秀の策かと思っていたが、弟の吉法師は姉と頻繁に接触している。
これは、彼が首謀者で間違いなさそうだ。
「それで斎藤様、お返事はいかに?」
「……そうだな」
この内通に乗るかどうかで、斎藤家の運命は大きく変わる。
本来ならば、こんな怪しい情報に踊らされるべきではない。
しかし儂の寝室に侵入してきているのに、暗殺はせずにわざわざ交渉をしているのだ。
取りあえずは、現時点ではだが斎藤家に危害を加えるつもりはなさそうである。
そこまで考えて、儂はおもむろに口を開いた。
「……内通の誘いを受けよう」
「ありがとうございます。主も喜ぶことでしょう」
そう言って、女は初めて優しく微笑んだ。
これまでの冷たい印象ではなく、何とも言えない暖かさを感じる。
そして思わず見惚れてしまった儂は、慌てて声をかけた。
「そなた、名は何と申す」
「陽炎銀子と申します」
まさか、正直に答えるとは思ってなかった。
となれば、偽名かも知れないが、そんなことは今の儂には関係ない。
「ならば陽炎銀子よ。儂に仕えぬか? 報酬は──」
「御冗談を」
そなたの主の倍を払おうと言おうとした瞬間、彼女はとても冷たい笑みを儂に向けてきた。
視線だけで人が殺せそうなほど、強い威圧感を確かに感じたのだ。
蝮と恐れられている自分が、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
ここで下手を打てば、即殺されると本能で理解させられた。
「どのような好条件であろうと、主は生涯変えるつもりはありません」
はっきりと言い切った彼女を見て、引き抜きは不可能だと容易に察してしまう。
「そっ、それは残念だ」
本当に残念ではあったが、今は一刻も早く銀子の冷たい視線から逃れたかった。
「では、また後日に連絡を致します」
彼女が後ろを向いて堂々と廊下に出ていくのを、儂はただ黙って見送る。
そのまましばらく呆然としていたが、やがて危機が去ったことに安堵した。
そして、美濃の忍び衆の強化も取り急ぎ行う必要に迫られて、大きく息を吐くのだった。




