暗雲
伊賀国と同盟を結んでから、しばしの時が流れた。
天文十三年の正月になり、古渡城に呼ばれたが、去年は稲荷神様に誓いを立てていると宣言している。
なので酔いが回った男連中に言い寄られることもなく、割と平和に祝いの宴を終えることができた。
そして大豆醤油の生産が始まったことで、魚が原料で強烈な匂いがする魚醤から少しずつだが移行しつつある。
まだ数が少ないので特別な場のみ振る舞われるため、元旦に集まった織田家や家臣たちからの評判は良かった。
あとは安定供給が見込めるようになれば、いつかは大豆醤油が主流になるのは間違いなさそうだ。
それからさらに時は流れ、天文十三年の夏になった。
最近は何かと調子の良く、国力や技術力が天井知らずで上がり続けている尾張国である。
しかし残念ながら全てが順風満帆とはいかず、林さんからあることを報告された私は、急いで古渡城へと向かった。
焦った表情のままで廊下を歩き、いつもの部屋の前に到着すると、挨拶もせずに勢い良く襖を開ける。
すると渋い顔の父と、居心地が悪そうにソワソワしている吉法師の姿を確認した。
私はそんな二人を視界に収めて、大股で歩きながら大声を出す。
「お父様! 美濃に攻め込む準備をしていると聞きました!」
吉法師が開いた襖を閉めるのと同時に、私は円座の上に乱暴に座る。
そして父は、その通りだと質問に肯定した。
そんな織田信秀に対して、さらに言葉を重ねる。
「今の尾張に戦は不要です! どうかお考え直しください!」
本当に心の底からそう思っている私は、深々と頭を下げた。
「美穂の言うことも一理あるが、それはできん」
「何故ですか!」
今なお興奮冷めやらぬ私の質問に、困ったような顔をする父は、溜息と一緒に答えを返す。
「儂とて、此度の戦が下策なのは理解している」
「それなら──」
今は周辺諸国が容易に手出しできないよう、国力を高めている最中だ。
その地盤固めが終われば、容易には勝てない相手になる。
そして負けるとわかっていて、わざわざ喧嘩を売る愚か者はいない。……とは言わないが、極少数だ。
なので、父も下策だとわかっている。
それならば考え直してくれるかも知れないと、私はさらに言葉を続けようとする。
だが織田信秀は、忌々し気に大声を出して遮ってきた。
「上に立つ者は、臣下に出世の機会を与えねばならん!
さらに戦働きの褒美として、領土を授けるのだ!」
一瞬怯んで体に震えが走るが、私は今回だけは負けてたまるかとばかりに、大声で反論する。
「しかし戦で領民の命が失われては、勝ったとしても国力が低下しかねません!」
たとえ美濃攻めが臣下のためだとしても、損害を被る可能性は捨てきれないのだ。
「さらに尾張は強くなったとは言え、必ず美濃に勝てるとは限りません!
何卒、お考え直しください!」
戦では勝っても負けても、多くの人的資源や物資が失われる。
新たな領地を得ても、元通りまで回復するには時間がかかる。
ついでに尾張は近年急成長しているとはいえ、絶対に美濃に勝てるとは限らないのだ。
もし籠城されたら、攻め側が不利になるのは基本である。
だが父は、これまでにない程の大声で叫ぶ。
「それが戦乱の世というものだ! 美穂もわかっておろうが!」
父の怒声が室内に響いて、私だけでなく吉法師も堪らず体を硬直させる。
しばらく誰も口を開かずに、時間だけが過ぎていった。
だがやがて、目の前に座る強面の父が大きな溜息を吐いた。
「今の尾張は、過去最高の国力を有している。これはわかるな?」
今年の刈り入れはまだ終わっていないので、正確な集計は出ていないが、それでも去年と同じかそれ以上になるのは、ある程度予測できていた。
二年連続の大豊作だけでなく、蜂蜜や椎茸、鶏の卵や綿花などの多くの農作物。
さらに醤油や味醂や寒天、酒などの加工食品でも膨大な利益を生み出している。
今の尾張は経済力だけなら、戦国時代の日本で十指に入ると言っても過言ではないのだ。
それ自体は良いことなのだが、何故か父は渋い顔をして私に語りかける。
「だが尾張が急成長し過ぎたせいか、家臣たちの増長に歯止めがかけられなくなったのだ」
つまりは家臣たちが驕り高ぶり、今なら美濃を落とせると声高に主張し始めたのだ。
「儂は名ばかりの三河守よ。ろくに舵も取れぬとは、情けないことよ」
「……お父様」
私は初めて、父の本心を知った。
織田信秀としては美濃との戦は反対だが、家臣たちの勢いに押されて仕方なく美濃攻めを行うことを決断したのだった。
そして私は気づいてしまった。
これまで自分が良かれと思って推し進めてきた尾張の改革のせいで、大勢の人が死ぬことにだ。
父や家臣たちの思惑も絡んでくるので一概には言えないが、結局私がやらかさなければこんな面倒な事態にはなっていないことだけは確実であった。
そう一度でも自覚してしまうと、色んな感情がごちゃ混ぜになり、苦虫を噛み潰したような顔になる。
そのまま天を仰ぎながら、素に戻って大声で嘆いた。
「全部私のせいじゃない!」
もし尾張が急成長しなければ、美濃を攻める余裕などない。
きっと今も自領の守りを固めていたはずだ。
「美穂のせいではない。全ては儂が至らぬからよ」
いつの間にか父は優し気な表情に変わり、私の頭にそっと手を置いて諭すように語りかけてきた。
「必ず生きて帰ってくる。美穂は吉報を楽しみに待っていると良い」
まるでこれから死ににいくような台詞だが、戦とは殺し殺されの命のやり取りだ。
ならば、もし父が帰らぬ人になったら、織田家は一体どうなってしまうのだろうか。
いくら跡継ぎが吉法師だと決まっているとはいえ、弟はまだ子供だ。
父でさえ家臣たちをまとめきれないのに、いくら何でも荷が重すぎる。
まだ亡くなると決まったわけではなく、生きて帰ってくるかも知れないが、絶対とは言い切れなかった。
しばらく誰もが口を閉ざして、ただ時間だけが過ぎていった。
足りない頭で考え抜いても、結局これといった解決案が思い浮かばない。
なので私は覚悟を決めていつものように開き直り、とにかく大声を出した。
「帰りを待つなんて、嫌よ!」
「何だと?」
明らかに困惑する父を真っ直ぐに見つめて、堂々と発言する。
「私も付いて行くわ!」
自分が一緒に行けば、いざという時に父を守ることができる。
「しかし美穂はまだ若く、それに女だぞ? 戦場に出るのは──」
確かに父の言うように万が一のお守りのようなモノだ。
人を殺すのは嫌だし、好き好んで戦いたいわけでもない。
それでも、そうするしかないと思ったのだ
「十歳を越えてるし、初陣なんて珍しくないわ!
それに私は女だけど、稲荷神様の御加護があるのよ!」
刀や矢では傷一つつかないし怪力で敵を倒したり、いざという時に父を守れる。
なので、戦について行っても足手まといにはない。
「確かに部下たちは奮い立つであろうな」
稲荷神大明神様は五穀豊穣のご利益がある。
なお、間違っても軍神や戦の神ではないが、それでも士気は上がるだろう。
そして私は閃いた。具体的な策にはなっていないが、先程言った言葉を思い出す。
これはもしかしたら、美濃攻めで織田家を一つにまとめることができるかも知れないのだ。
なので、顎髭を弄って思案している父に向かって口を開いた。
「お父様!」
「何だ?」
正直自分でも良くわかっていないが、思いついてしまったのだから仕方ないのだ。
「美濃攻めは負けましょう!」
「「はっ?」」
これには父だけでなく、記録係に徹している吉法師も唖然とする。
そして顎髭に触れていた手をこめかみに置き、頭が痛そうに口を開く。
「美穂、自分が何を言っているかわかっているのか?」
「言葉の意味なら百も承知よ!」
何でそんなことを言い出したのかは、頭の中でごっちゃになって良くわからないが、発言の意味なら十分に理解している。
そして一歩も退かないとばかりに、父の顔を真正面から睨みつける。
華奢な女子がやって迫力が出るかは置いといて、それでも負けられないのだ。
「ならば何故、織田の敗北を望む」
「お父様の命令に逆らった愚かさを教えるためよ!」
父の方針に逆らって美濃を攻めても上手く行かず、損しかないと教えることだ。
戦働きの褒美はあげられないが、人が大勢死ぬよりはマシだ。
「……それだけか」
真面目な顔をした父に聞かれて、私は慌てて頭を働かせる。
「尾張は決して一枚岩ではないわ!」
増長した家臣たちを抑えられずに、父は方針を変えたのだ。
もし美濃を攻め落として彼らがさらに力を増したら、もはや織田信秀でも手に負えなくなる。
ならば逆転の発想で、この機会を利用して力を削いでおくのだ。
しかしこれでは、戦争に介入して敵味方を見境なく攻撃するロボットアニメのようだ。
「稲荷神様は、天下を統一して戦乱の世を終わらせるために、私に御加護を授けたわ!」
私も自分で何を言っているのかがわからずに、混乱しっぱなしだが、とにかく口を動かした。
「でも、稲荷神様を利用して人々を苦しめることなんて、望んでいないわ!」
もっとも警戒すべきは敵ではなく、無能な働き者だ。
勝手に動き回って大勢の命を危険に晒すので、厄介この上ない存在である。
これには父も一理ありと考えたのか、真面目な顔で顎髭を弄る。
「しかし美穂が敗北を望もうと、織田が負けるとは限らぬぞ」
確かに私は、別に美濃を守るために織田軍と真正面からやり合うつもりはない。
そんなことしたら、完全な敵になって尾張から追い出されてしまう。
父にツッコまれたことで慌てて考えるが、私の足りない頭では名案は出てこない。
「吉法師! 何か良い策はないの!?」
なので、記録係に徹して蚊帳の外になっていた吉法師に尋ねた。
「姉上、そこで儂に聞くのか?」
「お願いよ! 姉を! いえ、織田家と領民を助けると思って!」
このまま家臣団の舵が取れないようでは、織田家はいつか空中分解してしまう。
何とか父の旗の元に集うように、調整しなければいけない。
「策を出すには異論はないが、……難しいのう」
そして私は吉法師に協力を頼み込んで、父を納得させる策を二人で必死に考えるのだった。




