豊作
農民たちからの怒涛のワッショイワッショイを受けて、羞恥心に耐えきれなくなった私は、急いで下宿先に駆け込んだ。
中に入って一安心し、入り口の扉を閉めようと手をかける。
すると、遠くから吉法師とその護衛がこちらに向かって来ていることに気づいた。
なので、取りあえず開けっ放しにして、中央の囲炉裏でお湯を沸かし始める。
若干息を切らしながら家にやって来た弟だが、何やら大切な話があると打ち明けられた。
そこで護衛は外で見張りを命じ、土間で草履を脱いで、彼は囲炉裏の前に敷かれた円座に腰を下ろす。
お湯が沸くまで殆ど喋らなかったが、頃合いを見て白湯を出して乾いた喉を潤してもらう。
すると途端に、吉法師が突然大声をあげた。
「姉上! 誰がここまでやれと言ったのじゃ!」
いきなり何のこっちゃと、私は首を傾げる。
「いきなりやり過ぎと言われても、状況が掴めないわ」
弟が家にやって来たと思ったら、身に覚えがない言いがかりをつけられた。
そこで大きな溜息を吐いた吉法師が渋々と言った表情で、状況を順番に説明していく。
「今年は天候に恵まれたおかげか、周辺諸国も軒並み豊作とのことじゃ」
「良かったじゃない。これで飢えに苦しむ人が減るわ」
民衆が飢えないで済むなら、それに越したことはない。
戦争の準備期間で兵糧を溜め込むのかも知れないが、こっちも同じことして容易には攻め込めない状況を作れば良い。
それの何がいけないのか今いち要領を得なかったが、弟が次に口にした言葉で私は驚いた。
「ちなみに尾張の米は地域によって差があるが、例年の約二倍じゃ」
「二倍? ……えっ? 冗談?」
吉法師が言う例年とは、あくまでも平均値のことだろう。それが急に二倍まで跳ね上がるとは、豊作ではなくそこに大が付くほどの快挙であった。
だが、今はまだ予想に過ぎないし、昔はどんぶり勘定だったので、その数字が絶対に正しいとは言い辛かった。
「いくら豊作でも、二、三割増しが当たり前じゃ」
流石に二倍はないと思い留まり、それでも過去最高の収穫量になったのは、喜ぶべきことだ。
しかし吉法師は微妙にしかめっ面をしたまま、続きを説明する。
「粒の大きさや病害虫の被害状況から、質の面でも高いのは間違いない。
そう考えて銭に置き換えれば、やはり例年の二倍近くなるじゃろうな」
それを聞いた私は、確かにこれはやり過ぎたと思った。
喜ぶべきではあるが、素直に受け止めるのは躊躇してしまう。
なので現実逃避をするために天井を見上げて、額を押さえて声を出した。
「ああ! なんてことかしら!」
しかし、これで先行投資した分は回収できた。
養蜂や養鶏、茸や綿花という米以外の副収入も試行錯誤の段階とはいえ、一応は好調に上がり続けている。
何だかんだで尾張の台所事情は、見事なV字回復を達成したのだ。
だが実際には、それだけでは済まなかった。
天井を突き破ってなおも上がり続けるという、ちょっとよくわからない異常事態が起きていた。
「尾張が発展するのは良いが、姉上はやり過ぎじゃ。
とてつもない利益を得たことを知った他の勢力が、行動を起こすのは間違いなかろう」
吉法師の説明を聞いて、私は顔を引きつらせて冷や汗をかいた。
それでも呼吸を整えて落ち着きを取り戻して、腕を組んで考えてみる。
しかし、脳筋ゴリ押し以外に取り柄のない私には、特に何も思い浮かばなかった。
「敵は何をしてくるかしら?」
なので素直に、姉よりも機転が利く弟に尋ねる。
「戦を起こすのは、最後の手段じゃ。となれば──」
攻め込んで略奪するのは手っ取り早いが、尾張も当然抵抗する。
逆に手痛いしっぺ返しを受けて、領土が奪われる可能性もあるのだ。
そして吉法師は少し考えた後に、私を真っ直ぐに見つけてポツリと呟いた。
「技術や道具、利益を得るための方法を盗む。民衆を扇動し、尾張各地で反乱を起こす」
さらに吉法師はふむと呟き、続きを話す。
「戦を起こすのは、策略を仕掛けてからじゃろう。
今の尾張には力があるゆえ、迂闊には攻め込めまい」
ぶっちゃけ戦国時代は自国以外は全てが仮想敵国なので、何とも面倒だなと感じた。
ちなみに弟が口にしたのは予想なので、私はもう少し楽観的な意見を口にする。
「でも、豊作が一度だけなら天運で済むんじゃない?」
例年の二倍は半信半疑だし、敵も嘘だと思うだろう。
そして今年は幸い良い結果になったが、来年がどうなるかはわからない。
だが弟は、大きく息を吐いて首を左右に振って否定する。
「二年連続で豊作となれば、尾張と周囲の格差はさらに広がる。
つまり、他国が手を打つには今しかないのじゃ」
確かに、ここで放置すれば、尾張はますます勢いづくかも知れない。
たとえ半信半疑だろうと、手に負えなくなる前に対処するに越したことはない。
戦は最後の手段だろうが、計略を仕掛けたり利益を奪って、少しでも差を縮めたり、追い落としたいと考えるのは無理もなかった。
私は弟の優秀さに感心しつつ、彼をじっと見つめて何気なく声をかけた。
「吉法師は本当に九歳なの?」
「何じゃ、姉上。藪から棒に」
キョトンとした顔をして見つめ返す弟に、続きを説明する。
「やっぱり吉法師は麒麟児だと思ったのよ」
「はははっ、姉上にはまだまだ及ばぬがのう」
姉を慕ってくれるのは嬉しいが、こっちはズルをしているので申し訳なく思う。
それに自分の賢さは現時点で頭打ちなので、いつかは追い抜かれてしまう。
しかも計略や策を巡らすことに関しては、吉法師には敵わなかった。
だが、織田家の次期当主の頭が良ければ尾張は安泰だ。
このまま姉の屍を越えていくなら良いかと、寂しさと嬉しさが混じったような不思議な感情を抱いたのだった。




