願証寺
<織田信秀>
美穂と吉法師が襲撃を受けてからしばらく経った頃に、証恵の使者で願証寺から来たと名乗る男が面会を求めてきた。
願証寺には誠に遺憾であると書状を送ったので、きっとその返事のつもりなのだろう。
しかし、寺院は敵でも味方でもないが、尾張に古くから根付いている厄介な存在だ。
儂は決して油断はせずに、古渡城下の武家屋敷に招いたのだった。
天文十二年の初夏、儂は徳の高い僧と武家屋敷の個室で対面した。
そこで形式通りに、まずは無難な挨拶を行う。
そして傍に控えている使用人の入れた茶を飲みながら、当たり障りのない話をする。
「あの僧たちには、願証寺も手を焼いておりましてな。
捕らえてくれて助かりましたぞ」
遺憾の意を表しても、知らぬ存ぜぬでとぼけることは予想していた。
(ふむ、これは美穂と吉法師を遠ざけて正解だったな)
もしこの場に美穂が居れば、売り言葉に買い言葉で即刻殴り飛ばすのは間違いないし、吉法師も歳の割には落ち着いているように見えて、まだ子供だ。
相手の態度に腹を立てて、感情的にならないとは限らない。
だが儂は慣れているので全く動じずにのんびり茶を飲んでいると、願証寺から来た僧は、さらに言葉を続ける。
「証恵様に反発して、奴らが寺を飛び出した時はどうなることかと思いました。
しかし、何事もなかったようで何よりです」
襲撃を受けたのは間違いないが、その殆ど美穂が単独で叩きのめして事なきを得たのだ。何事もないとは言っていないが、向こうは勝手にそう解釈した。
ようは今回の件で謝罪も損害賠償もしたくない思惑が透けて見えるが、寺院との関係が悪化するのは不味いので、儂もお茶を濁す。
「確かに僧兵は皆が腕利きと聞いておるゆえ、願証寺が手を焼くのも頷ける」
本当は美穂も護衛も大した怪我はなく圧勝したのだが、それを口にしたりはしない。
あくまでも人の基準からすれば、腕利きには違いないからだ。
「ふむ、わかってもらえましたかな?」
僧の言葉に無言で頷いた。
事を荒立てるのは、儂も願証寺も望んでいない。
(我が身のことながら、何とも情けない)
儂が織田家の主導権を握るようになり、勢力は順調に拡大している。だが、尾張を完全に統治できたとは言い辛い。
小さな火種が領内のあちこちで燻っていて、願証寺が扇動すれば、たちまちのうちに燃え広がるからだ。
そうなれば領民どころか家臣の中からも、一揆に加担する者が現れるのは間違いなかった。
「浄土真宗を信じる者は皆、人々の日々の平穏を願っております。
そのことをどうか、ご理解いただきたい」
信仰やそれを信じる者に非があるわけではないが、願証寺は出る杭を打ち、利権を得るために娘と息子を捕らえようとした。
「うむ、それについては儂も同じ思いよ」
だが自分も乱世を生き残るために、他国を侵略している。
目の前の善人面をした僧と、同じかも知れない。
飄々とした態度でとぼけた坊主を見て、心の中で溜息を吐く。
しかも彼は全く悪びれることはなく、平然と話題を変えた。
「では、捕らえた僧兵たちの返還を願い致します。
もちろん、断りませんな?」
正面の坊主が微笑を浮かべて堂々と口にしたので、大した面の皮の厚さだと内心で唸る。
だが、こっちもタダで返すつもりはない。
「しかし、奴らを大人しくさせるために難儀しましてな」
もちろん嘘だが、多少は面倒を被ったのは本当だ。
「娘も二度と戦いたくないと震えておりました」
「はははっ、それは何とも申し訳なかった」
申し訳なかったと言いつつも軽快に笑う坊主に、儂はあくまで表面上はにこやかに接する。
「それゆえに、娘が僧兵に襲われた恐怖を忘れるまで、一体どれだけかかるやら」
大げさに溜息を吐くと、続けて目の前の僧に語りかけた。
「なのでしばらく、娘の周囲に寺院の者を近づけぬようしてもらいたい」
真面目な表情で僧に向けて告げると、彼は少しだけ思案する。
「……わかり申した。他の寺院にも伝えておきましょう」
「感謝致す」
儂は軽く頭を下げることで申し訳程度の感謝を示すと、彼は満足そうな笑みを浮かべて話を戻した。
「では話を戻しますが、捕らえた僧兵を返していただきたい」
「申し訳ないが、それはできん」
儂がきっぱりと断ると、目の前の僧は明らかに不機嫌になって声を荒らげる。
「何故でしょうか? まさか願証寺と敵対するおつもりか?」
「そうではござらぬ」
儂は左右に首を振って否定した後、真面目な表情になり、諭すように説明する。
「実は書状を出した次の日に、僧兵たちは一人残らず息を引き取っておったのだ」
「なっ、何と!?」
願証寺の僧兵を返しても、恩を感じるはずがない。
再び襲撃を企てかねない危険な輩を、誰がわざわざ渡すものか。それに奴らはこっちの情報を得ており、それを上に報告されれば、願証寺の関係は確実に悪くなる。
ならば、口封じしてしまうのが賢い選択であり、儂はそれを躊躇なく実行に移したのだ。
「ここに運び込まれた時点で、誰もが満身創痍であった。
ゆえに医者を呼んでも、手の施しようがなかったのだ」
儂は達者な口を動かして喋るが、全てが嘘ではない。
古渡城から兵を送り、米村に引き取りに行くまでの間に、領民にこっ酷くやられたようで、誰もが怪我をしていた。
ただし命の危険がある程ではなかったが、そんなことは関係ないのだ。
「痛みに耐えかねたのか、仏の教えに従ったかはわからぬが。
儂も死者に鞭打つ真似はしたくないゆえ、火葬にて弔わせてもらった」
殺害の命令を下したのは自分だが、それをおくびにも出さずに沈痛な表情で説明を行う。
「……なるほど。ならば私も、彼らの冥福を祈るとしましょう」
この証言が、嘘か真かを判断しかねているのだろうが、願証寺からすれば成功すれば良し、だが失ってもさほど痛くはないはずだ。
そして、静かに黙祷を捧げる僧だったが、心の内は何を考えているかわからない。
(ふむ、何とか時間は稼げたか)
娘の襲撃に失敗した願証寺は、別の手を考えるだろう。
そして寺院の者を恐れているという噂を流したので、こちらも警護の数を増やしたと見て容易に手出しはできなくなった。
(あとは、美穂次第か)
しかし、人生とはままならないものだ。
寺院にへりくだり、娘の成果に期待することしかできない自分が情けなくなる。
内心で愚痴を漏らしながら、儂はこれからのことを考えた。
(やはり織田家の跡取りは、吉法師ではなく──)
今年の正月に、大々的に吉法師に織田家を継がせると宣言した。
それでも本心は違ったし、察しの良い息子なら気づいているだろう。
(尾張だけでなく、日の本の遥か未来を見据えている。
その上で、自ら先頭に立って行動を起こすか)
自ら先頭に立って皆を鼓舞し、長く続いた戦乱を終わらせるために前を向いて突き進んでいく姿は、多くの者に夢や希望を与える。
(遺言状は残しておるが、嫌がるであろうな)
それでも尾張だけでなく日の本の国の平和を願い、戦乱を終わらせたければ、織田家の跡継ぎにするべきなのは彼女だと儂は考えた。
吉法師は賢く要領が良いが、他者の気持ちまで理解が及ばず、説明を端折ることがある。
天才ゆえに息子の考えを読むのも一苦労で、孤独に陥りやすい。
一方で彼女は、自ら先頭に立って体を張って行動を起こし、根が善良なため部下や領民からの信頼は厚い。
欠点としては、嘘がド下手くそで腹芸ができず、とにかく脳筋ゴリ押しで物事を強引に解決しようとする。
なので計略に弱い。しかし敵の罠に嵌っても食い破れるほどの強さを持っている。
儂からすれば、どちらか片方だけでも天下人の器だが、まるで伏竜と鳳雛のようだと感じた。
(しかしあまり賢くないゆえ、補佐は吉法師に任せる必要があるか)
いくら能力がずば抜けていても、彼女の頭はあまり良くない。
上に立って仕事が増えれば、たちまち手が回らなくなる。
(ならば儂の役目は、次代のための土台作りだな)
まだ天下どころか、明日がどうなるかさえわからない。
しかし父親として何をすべきかだけは、朧気ながらも見えてきたのだった。




