砂時計
理解不能な出来事に直面し、僕は完全に混乱していた。救助作業の間は全てを忘れることができたけれど、花蓮とハルに合流した途端、現実をまざまざと見せ付けられ、足下が崩れるような錯覚がした。
それでもどうにか自分を保っていられたのは、花蓮に少しでも良い所を見せたいという自尊心を振り絞っていたからに過ぎない。
でも、信じられない出来事はそれだけでは終わらなかった。ハルを支えてタクシーに乗り、三人でアパートへ帰宅すると。
「体が……」
その光景に目を疑い、言葉を失った。
居間へ入るなり、疲れたと言って仰向けに横たわったハル。その直後から、彼女の体が次第に透き通り始めたのだ。
何が起こっているのか見当も付かない。
「駆、どういうこと?」
「僕にわかるわけないだろう」
花蓮へ怒りと混乱を当てつけるように答えると、眼下のハルは力ない笑みを浮かべた。
「未来が、変わったんだよ」
『え?』
僕と花蓮の驚く声が重なった。
「ふたりを庇った時、全部思い出した……本当はあそこで、ふたりは事故に巻き込まれるはずだったの。花蓮さんは亡くなって、守時さんは病院で一命を取り留めるの」
「どういうこと?」
驚愕に目を見開いた花蓮は、僕の向かいへかがみ、同じようにハルの顔を覗き込んだ。
僕は話を理解しようと必死に考えを巡らせていたけれど、そんなことはお構いなしに、彼女は更に言葉を紡ぐ。
「守時さんはそこで、ママと出会うはずだったの。未来が変わったから、私はもう存在できなくなったんだよ。きっと」
「ママ?」
言葉を失う僕へ、晴れやかな笑顔を向けてくる彼女。その顔を見てようやく気付いた。
それはまるで、あのチョコレートを口へ含んだ時のような感覚。苦みから甘みへ変わり、味わいが調和を保った瞬間の衝撃に似ていた。
頭の中で様々なことが結びついてゆく。
未来の出来事や僕の名前を知る彼女。食の好みも似ていて、母親の存在まで匂わせた。
そして僕が答えを言う前に、待ちきれないといった顔でハルの口が動いた。
「まだ気付かないの〝パパ〟。私は娘なんだよ。初めまして、だね。もう、お別れの時が迫ってるけどさ」
思った通りだ。しかし、余りにも現実離れした出来事に頭が付いていかない。その上、目の前にいる花蓮の顔を見ることができない。彼女は今、どんな気持ちで、どんな顔をしているのだろう。
花蓮の命は救われたけれど、それが結果として、ハルの未来と存在を奪った。何が正しかったのか、どうすればよかったのかは僕にもわからない。ただ、その事実だけが、こうして目の前へ突き付けられている。
「パパの未練が、私をこの日に送ったんだよ。ごめんね。私のせいで辛い思いばっかりさせて。これで許してね」
「未練って、何のことだかわからないよ」
僕の言葉に、困った顔で微笑む彼女。
「そうだよね。私はさ、何百万人にひとりっていう脳の難病を抱えているんだって。ママが命と引き替えに産んでくれたのに、親不孝な娘で困っちゃうよね」
「命と引き替え?」
到底信じられない、衝撃的な話が次々と降りかかってくる。僕の魂へ向けて、言葉の散弾を浴びせられている気分だ。
この話の全てが彼女の冗談だとしたら、どんなに楽だろう。でも、眼下へ横たわったハルは半透明にまで透過した。恐らく、消えてしまうのは時間の問題だ。
でも、その全てを伝えようとしているのだろう。笑みを絶やさず、力強くも優しさに満ちた目が、僕を真っ直ぐに捉えている。
「高校へ入ってすぐに病気が見付かったの。なぜか今は普通に動けているけど、未来の私はベッドで寝たきり。体は動かなくなって、話すことも難しくなるって。パパはひとりで本当に苦労したと思うんだ。ありがとね」
「礼なんて止してくれ。それは未来の僕がやったことだろう。今の僕は何もしてやれない」
まさか、そんな過酷な運命を背負っているだなんて夢にも思わなかった。
このまま今の会社で働いて、ゆくゆくは花蓮と結婚。子どもは男の子と女の子を一人ずつ授かれたら幸せだろう。そんなささやかな未来をぼんやりと思い描いていたのに。
困惑しながら視線を外すと、ハルの両手を包み込む花蓮の手が映った。そこでようやく彼女の顔へ目を向けることができた。
瞳から溢れた涙が頬を伝い、顎の先から静かに零れている。それは流れ落ちる砂時計を思わせた。僕たちの手の平へ残された砂は思うほど多くない。
すると、ハルの擦れた笑い声が届いた。
「パパも疲れちゃったんだよね? 珍しく病院に外出許可を取ったと思ったら、出掛けようだなんてさ。私は、ママがお気に入りだったっていうコートを借りて、ご機嫌だったんだよ。それがまさか、無理心中するなんてさ。びっくりだよ」
驚き、恐怖、絶望。それらが一度に襲ってきた。世界の終わりを見せられた気分だ。





