夫婦漫才
「守時さん。ここにいたんですね」
不意に頭上から降ってきた声。顔を上げると、ハルの姿があった。
「花蓮はどうしたの?」
僕の問い掛けに、ハルは自分の眉間を指差した。
「この辺りにシワを寄せて、小難しい顔で素材を吟味してますよ。守時さんは愛されているんですね。あんなに綺麗で、気立ての良い彼女がいるなんて、本当に幸せ者だと思います」
ハルはからかうような笑みを浮かべ、僕の隣へそっと腰を降ろしてきた。興味津々といった好奇の目を向けられ、どう対応して良いのか戸惑ってしまう。
「まだ付き合って半年だからね。これで冷め切っていたら問題だよ」
「私から見てもお似合いですよ。互いを尊重しあっている雰囲気が伝わってきて、おふたりの関係が凄く羨ましいです」
お世辞だとしても嬉しい言葉だ。
「尊重。そうかな? 僕は、彼女にやられっぱなしなんだけど。こういうのは、尻に敷かれるって言うんだよ。きっと」
「悲しそうな顔をしないでくださいよ。そう言う割に、一緒にいる時は凄く楽しそうじゃないですか。会話もポンポン飛び交って、夫婦漫才を見ているみたいです」
屈託のない笑顔を見せられ、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。
「君にだって、いずれはそういう相手が現れるさ。いや、これは失言か。忘れているだけで、いるのかもしれないよね」
「どうなんですかね」
ハルは前髪を弄び、困ったように笑う。
僕と花蓮のことを尋ねられても恥ずかしい思いをするだけなので、別の話題を探した。
「恋愛もそうだけど、学生時代なんて楽しいことだらけだったよ。友達と馬鹿ばっかりやってさ。僕の中で高校と大学時代は、いつまでも宝石みたいに輝いてるんだ。その時代を謳歌している君を羨ましく思うよ」
「それって、今は輝いていないってことですか? あんなに素敵な彼女さんまでいるのに」
どうやら、自ら墓穴を掘ったらしい。
「そういうことじゃなくてさ。今も輝いてるよ。でも、あの頃の美しさには敵わないかな。毎日が充実してたんだ。本当に」
言葉を紡ぎながら、心のどこかが軋んだ音を立てている気がした。歯車が噛み合わせを歪め、弱い自分が顔を覗かせてしまう。
「今は、仕事のプレッシャーだとか社会的責任だとか、背負うものが増え過ぎたんだ」
時折懐かしく思い出すほど、過去を羨んでしまう自分がいる。
いや、懐かしむという感覚とは少し違う。戻ることのできない時間にすがっているのだ。そんな自分を、弱い人間だと苛むこともしばしばだ。
「君も早く記憶が戻るといいね。僕の人生において最も大切だと思える時間を失っていることが、とても悔しくて、もどかしいんだ。僕にどうにかできるなら、今すぐ記憶を戻してあげたいくらいだよ」
「はぁ。ありがとうございます」
なぜか、呆気に取られた顔をしている。
「どうかした?」
「いえ。守時さんって物静かでクールな印象だったので、なんだか圧倒されちゃって。そこまで拘るってことは、とても素敵な学生時代を過ごされたんですね」
「素敵かどうかはよくわからないけど、今でも羨ましく思うんだから、いい時だったってことなんだろうね」
「じゃあ、これからがもっとよくなるように、今まで以上に頑張ってください。素敵な彼女さんを大切にしてあげてくださいね」
胸の前で両手を握り締めている仕草を見て、微笑ましくなってしまった。
「ありがとう。頑張るよ」
年下の少女から応援されるというこの光景。周りからはどう見えているのだろうか。複雑な気持ちを抱えていると、右手に握ったままのスマートフォンの存在を思い出した。
「そういえば、お店を眺めながら歩いていた時に、花蓮が気になることを言ってたんだ。これを見てごらんよ」
隣へ座るハルにスマートフォンを差し出すと、興味津々という顔で画面を覗き込んできた。
「これ、私が着てるコートですよね?」
「そうだね、同じ物だと思う。だけどね、そのコートは有名ブランドの商品みたいなんだ。君がそんな高価な物を身につけているのも驚きだけど、その色は、今年発売したばかりの新色なんだって」
「そうなんですか?」
ハルは驚いた顔をして、ピンクベージュのコートへ目を落としている。
「花蓮が言うにはね、君はこの有名企業に務める関係者の、お嬢さんなんじゃないかって。新商品を身に着けていることといい、キャッシュレス生活といい、間違いないだろうって」
「キャッシュレス、引っ張りますね」
ハルが可愛らしい笑顔を見せたので、僕も釣られて笑ってしまった。
「それはないと思いますよ。お嬢様は、デニムにスニーカーなんて履かないと思います。どこか近所に、気兼ねなく出歩くような格好ですよ」
「まぁ、そう言われればそうだけどね。でも、着飾ったりしない、気さくなお嬢様なのかもしれないじゃないか。キャッシュレス生活の」
「もう。守時さんまでからかわないでくださいよ」
僕の腕を叩いて屈託なく笑うハル。記憶を失っているということを除けば、その姿は本当に年相応の少女だ。
「待てよ……」
今度は僕が違和感を覚える番だった。
「近所に出歩くような格好か……ひょっとしたら君は、どこかに入院していたなんてことはない? 記憶がない上に、顔色も優れないのが気になっていたんだ。そう考えると、空に憧れるっていう話も辻褄が合うような気がするし、荷物がないのも頷ける」
「なるほど。お嬢様説よりは、よっぽど信憑性もありますね。ということは私、病院を抜け出してきちゃったってことですかね?」
「だけど、僕の名前を知っていることの説明がつかないね。僕に会うためだけに病院を抜け出すっていうのもおかしな話だし」
「この辺りにある精神科の病院に問い合わせたら、なにかわかったりしますかね? ちょっと怖い気もしますけど」
ハルは不安げな様子を滲ませている。この若さで精神科に入院するというのも、にわかには信じがたいけれど、可能性のひとつとして心に留めておくべきだろう。
「後で警察に相談することになるだろうから、その時にひとこと添えてみようか。手掛かりになるかもしれない」
「そうですね……でも、なんだか急に怖くなってきちゃいました。自分でもわけがわからなくて。考えすぎたらお腹も空いてきたし、もうこの話はやめにしませんか?」
「そうだね。花蓮が戻って来たら、美味しいものを食べに行こうか。君の好きな物をごちそうしてあげるよ」
「本当ですか? 守時さん、大好き」
「いや、あのさ……周りに変な誤解をされると困るから、もう少し自然な感じにしてくれないかな? 親戚のお兄さんと話すような感じでさ」
「すみません。美味しいものって聞いたら、急に気分が上がっちゃって」
互いに気恥ずかしくなり、極力大人しくするよう努めた。そうしている間に花蓮の買い物も終わり、昼食を摂るためにレストランへ向かった。
☆ ☆ ☆
「何これ、美味しいっ。ふわっふわ」
パスタを平らげた後だというのに、ハルは大口でパンケーキを頬張っている。
細身の割に凄い食欲だ。まるで何日も食べていないような勢いに、圧倒されてしまう。僕は食事をすることも忘れ、彼女の前から消えてゆくパンケーキを呆然と眺めていた。
「駆もパンケーキを食べたかったの?」
咄嗟に視線を向けると、からかうような笑みを浮かべた花連がいた。手元のオムライスを目掛け、スプーンが突き刺される。
「それとも駆君は、パンケーキを食べる女子高生に興味があるのかな?」
僕を見据えるアーモンド型の目。長い睫毛に守られ、色気を含んだ大好きな目だけれど、今はそこに恐怖しか感じない。
逃げるように視線を逸らす。黄色い玉子の上で揺れるケチャップが、オムライスから溢れた血のように映った。
「女子高生に興味? そんなわけないでしょ」
「どうだか。正直に答えなさい」
オムライスを襲った後は、僕のハンバーグが標的になった。上に乗せられた目玉焼きの黄身を狙い、スプーンの先が添えられている。
「ちょっと」
焦る気持ちが声になって飛び出した。
花蓮へ視線を戻すと、背筋が寒くなる程の冷めた目を向けられていた。そして、艶やかな唇がゆっくりと動き始める。
「駆の食に対する変なこだわりのひとつ。好きな物は最後に食べる、だったわよね? このハンバーグだってそう。最初は素材自体の味を楽しんで、黄身を絡めるのは後半から」
花連は僕の好みを熟知している。こんな暴挙に出るとは、本当に怒っている証拠だ。





