新たな五線紙
家路を急ぐ僕の左手には、プレゼントをしまった袋。右手で娘と手を繋ぎ、マンションのある通りへと進んだ。
僕たちが暮らすマンションは、奏の森から歩いて五分ほどの場所にある。遙佳がいなくなった後で手持ち無沙汰になることはわかっていたけれど、彼女が生きる未来に願を懸け、思い切って購入へ踏み切ったのだ。
バルコニーから奏の森が一望できる自宅を遙佳はとても気に入っていた。彼女がいなくなってしまった今では、その痕跡を感じられる大切な場所だ。未希が寝静まった後、コーヒーの入ったマグカップを手に、バルコニーから公園を眺めることもしばしば。
そして、徐々にエントランスが近付いて来ると同時に、僕の目は違う物をはっきりと捉えていた。
これは白昼夢と呼ばれる現象だろうか。どう考えても現実だとは思えない。
「あ、先生」
未希は、余計な物を取り除くように僕の手を解いた。一目散に駆け出す左手には、よつ葉のクローバーが大切に握られている。
「なんで?」
頭の中が真っ白になり、時間の流れがスローモーションになったような不思議な感覚。いや、凍り付いている。僕はその場から、一歩も動くことができなくなっていた。
「未希ちゃん。会えて良かった」
懐かしい声と共に、通りへ歩み出してきた女性。その場へ屈んで未希を迎えながら、差し出されたクローバーを受け取っている。
「どうして先生がいるの?」
破顔して甘えた声を上げる様は、僕が知っている娘とは別人だ。ふたりが醸し出す濃密な空間へ入り込むことができない。
「先生、って……」
自分の物とは思えない、擦れた声が漏れた。
普段、送り迎えに応対してくれている女性が娘の担任だと思っていた。僕の認識が間違っていたということなのか。
「未希ちゃんが忘れ物をしたから、届けに来てあげたの。先生の家も近くだからよかったけど、気を付けてって言ったのに」
「ごめんなさい」
彼女は未希の頭を撫で、厚手の封筒から一枚の画用紙を取り出した。
「未希ちゃんが頑張って書いんだから。ほら、パパにちゃんと見せてあげて」
「は〜い」
画用紙を受け取った未希は、誇らしげな顔で僕を振り返ってきた。
先生。娘が発したその言葉も、眼前の光景も到底信じられない。それら全ては、僕を騙すための作り話に思える。
僕が今の保育園を選んだのは偶然だ。マンションのメールボックスへ届いた手作りの案内状。それを開封し、二十四時間対応という謳い文句に即決してしまったのだけれど。
「パパ、見て」
広げられた画用紙には、目鼻と口の付いた人らしきものが描かれている。それも三人。
左に書かれた大きな顔には〝パパ〟の文字が添えられている。中央の小さな顔には〝みき〟の文字。
そして右には、長い髪の小さな顔。添えられている文字は〝れんちゃん〟。
娘はいつも、保育園での出来事を楽しそうに話してくれる。特に、友達より先生に懐いていることは話の内容からも窺い知れた。
一才から面倒を見て貰い、片親という環境。仕方のないことだと諦めていたけれど、園での生活以外にも、食事の差し入れから身の回りのことまで、度が過ぎると思うほど世話を焼いてくれていた理由がようやくわかった。
「どうして?」
そうつぶやくのが精一杯だった。
僕の視線に気付いた〝れんちゃん〟が立ち上がり、ゆっくりと近付いて来た。
「未希ちゃんの絵、上手でしょ。でも、そんなことが聞きたいんじゃない、って顔ね」
その口元へ、穏やかな笑みを湛えている。
「本当は、奥さんの三回忌の後で会いに来るつもりだったんだけどね。どうしても勇気が出なくて、気付いたら七年もかかっちゃった」
それだけの歳月を経ても損なわれることのない美しさに、我を忘れて見とれていた。
まるで、あの日から時間を飛び越えてきたようだ。彼女は何のわだかまりも見せず、するりと僕の心へ入り込んで来た。
僕等が別れた一ヶ月後、花蓮は会社を去った。それからは音信不通になっていたけれど、こうして保育士になるために頑張っていたのだろう。全ては未希を支えるために。
「どうしてだよ? 君だけでも自由に生きて欲しい、そう言ったじゃないか」
まさか彼女と、しかもこんな形で再会するとは夢にも思っていなかった。
結局、僕は花蓮に対しても、解けることのない呪いを与えていたということか。ひとりで罪を背負った気になっていたとは滑稽だ。
「あの夜に言ったはずよ。私は私のやりたいように、自由に生きることにするわ、って」
凜として、自信に満ちた笑顔が眩しい。
「もういい加減に、自分を楽にしてあげてもいいんじゃない? そんな生き方、遙佳さんだって望んでないよ。絶対に」
その顔を見て確信した。
彼女は呪いなど受けていない。進むべき道を見失った僕とは違い、自分だけの力で迷うことなく、この場所まで辿り着いたのだ。
「やっぱり強いな。行動的になった時の君の逞しさを、随分と甘く見てたみたいだ」
花蓮は未希の肩を抱きながら、強い眼差しで僕を見つめ返してきた。
「だから言ったでしょう。またね、って」
それは何の悪意も淀みもない純粋な笑み。
この人生を不幸だと感じているのは僕だけなのかもしれない。自分の心持ちひとつで、良い方向にも、悪い方向にも流れは変わる。
僕らが奏でる三重奏。それは正しい音色なのか、どんな終演を迎えるのか。その答えを知る術はない。今の僕にできることは、心の奥底へ生まれてしまった迷いと戸惑いが不協和音とならぬよう、ふたりと調和を保つこと。
弱気な自分を包み隠し、押し殺し、この新たな五線紙の上を飛び続けてゆけばいい。その先へ広がるのはきっと、別の未来では見ることのできなかった景色だ。
今の僕等なら、きっとその先へゆくことができる。





