お姫様
カフェの木製ドアを押し開けると、上部へ備え付けられたベルが可愛らしい音色を上げた。まるで僕たちの来店を喜んでいるようだ。
その音色を聞いただけで、未希は途端に笑顔を浮かべた。月に二回はここへコーヒー豆を買いに来ているけれど、ベルが奏でる軽やかな音を娘はとても気に入っている。でも、それだけじゃない。娘の興味は店内の内装にまで及んでいた。
アンティークの小物や、人形がさり気なく配置され、カントリー調のアットホームな世界観が形成されている。見ているだけで心が和み、とても居心地の良い空間だ。
「いらっしゃいませ」
芳ばしい香りに乗って、カウンターの奥から、女性店員の可愛らしい声が届いた。
「守時。こっち、こっち」
時刻は十四時過ぎ。ランチタイムは過ぎているけれど、数人のお客が寛いでいる。それに構わず、世良は大きな声を出して手を振っている。こういった細やかな気遣いのできない所が、あいつの出世を遅らせているのは間違いない。
四人掛けテーブルには世良夫婦と岩見が着き、上座には子ども用の椅子が用意されている。やはり、僕と未希が最後だった。
「もう少し声を抑えてよ。他のお客さんの迷惑になるでしょう」
隣席に着いていた妻の美咲さんは、恥ずかしそうに周囲へ視線を巡らせている。それを目にした世良の顔へ、途端に不快感が滲んだ。
「声を掛けるくらい構わねぇだろ。美咲がそんな風に言ったら、余計に注目されるって」
彼女は何かを言いかけたけれど、周りの目を気にして渋々押し黙った。でも、不満が残っているのが在り在りとわかる表情だ。
世良は後で小言を言われるのだろうけれど、そんな相手もいなくなってしまった僕には、とても羨ましい光景だ。
「仲良くしないとダメなんだよ」
犬も食わないという夫婦喧嘩へ、口を挟んだのは未希だ。天使のふくれっ面を見て、世良夫婦は困ったような笑みを浮かべた。
「ごめん、ごめん。大丈夫だよ。喧嘩してる訳じゃないから」
「そうよ。おばさんたち、本当は凄く仲良しなんだから」
慌てて取り繕う世良夫婦に苦笑しながら、席を立ったのは岩見だ。子ども用の椅子を引き、未希へ優しい視線を投げ掛けると、背もたれを軽く二回ほど叩いた。
「どうぞ。お姫様」
「未希、お姫様?」
その言葉が余程うれしかったのか、満面の笑みで椅子へよじ登る娘。そこには、お姫様らしさなど微塵も感じられないのが悲しい。
いつもなら、世話焼きの世良が真っ先に動くはずが、未希に責められ反応が遅れたらしい。岩見は未希の着席を見届け、隣席を空けながら元の席へと引き返した。
そうして僕は、岩見と未希に挟まれる形で着席した。僕の正面には世良。岩見の向かいには美咲さんが座っている。
「遅くなってごめん。公園で、よつ葉のクローバー捜しに夢中になっていて」
未希から預かったクローバーは、ハンカチに挟んで、コートのポケットへしまってある。これを無事に持ち帰ることは、姫から与えられた重大な任務となってしまった。
「ごめんなさい。未希が、よつ葉が欲しいって言ったの」
頭を下げる小さな姿を見せられては、誰も怒ることなどできない。それそれが微笑みで謝罪を受け入れると、美咲さんが即座に口を開いた。
「いいのよ。みんな来たばかりだから。それにしても未希ちゃん、きちんとごめんなさいができるなんて偉いのね。やっぱりお姫様は違うわね」
それを受けて、娘は得意満面の表情で微笑んだ。
「保育園でね、先生に言われたの。ご挨拶と、ありがとうと、ごめんなさいが言えない子には、怖〜いオバケがくるんだって。未希、オバケは嫌いって言ったら、先生がぎゅってしてくれたの」
僕も初めて聞かされた話だ。
知らない所で成長している我が子の姿に、嬉しさと寂しさを抱えながら、その髪をそっと撫でた。
「今日は、みんなわざわざありがとう。まさか未希の誕生日祝いをしてくれるなんて。連絡を貰った時には驚いたよ」
三人の顔を見渡すと、世良が照れ笑いを浮かべながら、岩見を顎で示した。
「言い出したのは岩見だから。俺はそれに乗っかって、話を進めただけだし」
「よく言うな。仕事より張り切ってただろ」
呆れ顔で小さく笑う岩見。それを聞いた美咲さんも、柔らかな笑みを浮かべた。
「岩見さんの言う通りよ。場所はどうしようだとか、プレゼントは何がいいかだとか、凄く張り切っていたのよ。可笑しいでしょう?」
「張り切るって……俺は遠足前の小学生か?」
世良の返しに、僕たちは声を上げて笑い出してしまった。
「みんなにそこまで想って貰えて、本当に嬉しいよ。なぁ、未希?」
隣へ座る娘も満面の笑みを浮かべて、大きく頷いている。
世良は、どちらかと言えば岩見を嫌っていたはずなのに、最近はとても仲が良い。思い返せばふたりが歩み寄ったのは、遙佳が亡くなった後からかもしれない。
僕を元気付けようとしてくれているのか、昼食に誘われることも多い。さすがに夜は遠慮して、飲みに行くことはなくなったけれど。
消えてしまった少女は、今の会社を絶対に辞めてはダメだと言っていた。僕はそれを彼女との約束として守り通したわけだけれど、世良と岩見の存在をなくして今の僕は考えられない。
恐らく未来の僕は、遙佳を失ったことで自暴自棄になってしまったのだ。ひとりで全てを背負い、その重圧に押し潰されたんだろう。どれほどの孤独と苦しみを味わっていたのかは計り知れない。疲れ果て、投げ出したくなった気持ちも、今ならわからなくもない。
けれど、そう言った意味でも、あの子が知る未来とはかなり違ったものになっているはずだ。このまま、未希が何事もなく育ってくれることを心の底から願うだけだ。
「どうぞ」
若い女性店員がやってきて、水の入ったグラスを静かに置いてゆく。
「ご注文はいかが致しますか?」
大きくパッチリした目に見つめられ、年甲斐もなく緊張してしまう。
すっと通った高い鼻と、ぽってりとした唇を持ち、モデルのように整った顔立ちだ。女子大生と言っていたはずだけれど、緩いパーマをかけたセミロングの黒髪も相まって、とても大人びて見える。
僕はブレンドコーヒーを。娘にはオレンジジュースを頼んだ。
その数分後、飲み物と一緒に、世良が手配してくれた中サイズのホールケーキが運ばれてきた。娘の好きな、苺がたくさん乗ったケーキだ。
みんなでバースデーソングを歌った後、切り分けたケーキを味わった。甘い物が苦手な岩見は、ほんの一口分だったけれど。





