表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不協和音の三重奏 〜今もまだ〝君〟への想いが消えなくて〜  作者: 帆ノ風ヒロ / Honoka Hiro
第三楽章 MILK

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/23

空と海の境界


 言葉を失った僕等。それを補うように、テレビから音声が漏れ続けている。


 芸能人たちの面白おかしく脚色された話に、会場から上がる呑気な笑い声。普段はくだらないと一蹴してしまうところだけれど、今は沈黙が怖い。そこからもたらされる音だけが唯一の救いだった。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 重く淀んだ空気を振り払うように、コートとバッグを手にして立ち上がった花蓮(かれん)。その右手がバッグをまさぐり、何かを手にした。


 それは、僕が渡したこの部屋のスペアキーだった。鍵には、ふたりで購入した誕生石のキーホルダーがぶら下がっている。

 それらは手早く分けられ、僕の前には妙にさっぱりとなった鍵が静かに置かれた。


 鍵は元の姿へ戻っただけとも言えるけれど、僕と花蓮の関係をなかったことにはできない。僕の心にも鍵をしてしまえばいい。花蓮との全てを閉じ込めて、前だけを見ればいい。


 動けずにいる僕の横を通り抜け、玄関へ向かってゆく花蓮。けれど、このまま終わってしまうのは余りにも後味が悪い。


「駅まで送るよ」


 つい、そんな白々しい言葉が口をついた。


 これ以上、彼女を苦しめてどうするつもりなんだ。奥底へ燻る未練に向けて、恨みがましい想いを投げ付けた。


「平気よ。ひとりで帰れるから」


 花蓮が振り返ることはなかった。ヒールの甲高い音が妙に響いて聞こえる。


(かける)の気持ちはよくわかった。あなたを困らせたくないから、私は私のやりたいように、自由に生きることにするわ」


 ドアノブを握ると、その動きが止まった。


「じゃあ、またね」


 その短い言葉が僕の心を激しく捉えた。胸が苦しくなり、呼吸が止まる。


 僕と花蓮に、またという機会はない。空と海の境界を描くように、花蓮には広く自由な空を見て欲しい。僕には、暗い海の中へ沈み込む未来しかない。ここからは別々の人生だ。


「じゃあ」


 ドアを開け放った花蓮の背へ短く告げる。その姿が夜の闇へ溶けるように消え、乾いた音を上げて扉は閉ざされた。


 体の向きを戻し、テーブルへ両肘を付く。溜め息を漏らした口の中には、チョコレートの苦みが僅かに残されていた。

 この苦みが毒となり、僕の命を奪えばいい。そんな破滅的な考えを持ってしまうほど、投げやりになっていた。


「くそっ」


 とめどなく溢れて来たのは怒りと悲しみ。それを当てつけるように三重奏の箱を握った。

 力を込めると箱は簡単に折れ曲がり、行き場を失ったチョコがテーブルを転がる。


「これしかなかったんだ」


 無理矢理にでも自分を納得させなければ、今にも気が狂いそうだ。三重奏のパッケージへ描かれた楽譜のように、一糸乱れぬ予定調和の未来へ向かうしかない。


 あの子に救われた花蓮の未来。それに感謝して生きる道もあった。けれど、そう思った時に浮かんだのは、あの子の儚い笑顔だった。


「これじゃ、君が……」


 その儚い笑顔が、心を捉えて離さない。


「君だけが、救われないじゃないか」


 花蓮と引き替えに失われた笑顔。今はまだ誕生する予定のない命だけれど、このままでいいのかという葛藤が生まれてしまった。


 子どもを持ったことのない僕には、その本当の重みはわからない。けれど、何ものにも代えがたい大事な存在だということはわかる。


〝娘に何かあったら、自分の命を投げ出したって、ちっとも惜しくない〟


 愛澤(あいざわ)課長は真面目な顔で言い切ると、照れくさそうに笑っていた。間違いなく本心だ。


 それほど大きな存在をなかったことにしていいのかという想いが、花蓮を想う心と激しくぶつかり合った。でも、壮絶な終わりは既に知らされている。僕らは破滅へ向かう五線紙の上で、頼りない音を上げる脆弱(ぜいじゃく)な存在でしかない。


 そう悲観していた時、新たに響いた音があった。


 あの子が見たのは、僕が自ら終止線を描いた譜面だ。そこで踏みとどまることができたなら、違う譜面が完成するはずだと。


「これは僕のエゴかもしれない。でも……」


 病気になると知りながら、彼女を誕生させるのは罪かもしれない。僕の自己満足のために、あの子へもう一度、苦しみを与えようとしているだけなのかも。


 しかし、未来のことなど誰にもわからない。もしかしたら、未来の僕らが命を落とした翌日に、世界のどこかで特効薬が発明されていた可能性もゼロじゃない。


 あの子の未来を奪った僕の罪は消えない。それを背負いながら一縷(いちる)の望みに賭け、今度こそ娘と向き合って共に歩む。そう決心した。


 未来の僕がなぜ、心中などという結末へ思い至ったのかはわからない。けれど、娘の命まで奪うなんて正気とは思えない。僕には、あの子への償いと未来を守る責任がある。花蓮には本当にすまないと思うけれど、こんな生き方しか選べない。


 遙佳(はるか)さんに出会ったこと。そして不思議と彼女に惹かれてしまうのも、(のが)れられない運命なんだろう。花蓮を失ったはずの僕が恋をして、結婚を決意したほどの相手だ。何が起きても不思議じゃない。


 でも、これでようやく演奏を始められる。遙佳さんと娘を巻き込んだ、本当の三重奏。ここからどんな音を奏でられるかは、僕の生き方ひとつで決まる。


「絶対に、守り抜いてみせる」


 転がり落ちたチョコレートをひとつ摘まみ、奥歯で思い切り噛み砕いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ