空と海の境界
言葉を失った僕等。それを補うように、テレビから音声が漏れ続けている。
芸能人たちの面白おかしく脚色された話に、会場から上がる呑気な笑い声。普段はくだらないと一蹴してしまうところだけれど、今は沈黙が怖い。そこからもたらされる音だけが唯一の救いだった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
重く淀んだ空気を振り払うように、コートとバッグを手にして立ち上がった花蓮。その右手がバッグをまさぐり、何かを手にした。
それは、僕が渡したこの部屋のスペアキーだった。鍵には、ふたりで購入した誕生石のキーホルダーがぶら下がっている。
それらは手早く分けられ、僕の前には妙にさっぱりとなった鍵が静かに置かれた。
鍵は元の姿へ戻っただけとも言えるけれど、僕と花蓮の関係をなかったことにはできない。僕の心にも鍵をしてしまえばいい。花蓮との全てを閉じ込めて、前だけを見ればいい。
動けずにいる僕の横を通り抜け、玄関へ向かってゆく花蓮。けれど、このまま終わってしまうのは余りにも後味が悪い。
「駅まで送るよ」
つい、そんな白々しい言葉が口をついた。
これ以上、彼女を苦しめてどうするつもりなんだ。奥底へ燻る未練に向けて、恨みがましい想いを投げ付けた。
「平気よ。ひとりで帰れるから」
花蓮が振り返ることはなかった。ヒールの甲高い音が妙に響いて聞こえる。
「駆の気持ちはよくわかった。あなたを困らせたくないから、私は私のやりたいように、自由に生きることにするわ」
ドアノブを握ると、その動きが止まった。
「じゃあ、またね」
その短い言葉が僕の心を激しく捉えた。胸が苦しくなり、呼吸が止まる。
僕と花蓮に、またという機会はない。空と海の境界を描くように、花蓮には広く自由な空を見て欲しい。僕には、暗い海の中へ沈み込む未来しかない。ここからは別々の人生だ。
「じゃあ」
ドアを開け放った花蓮の背へ短く告げる。その姿が夜の闇へ溶けるように消え、乾いた音を上げて扉は閉ざされた。
体の向きを戻し、テーブルへ両肘を付く。溜め息を漏らした口の中には、チョコレートの苦みが僅かに残されていた。
この苦みが毒となり、僕の命を奪えばいい。そんな破滅的な考えを持ってしまうほど、投げやりになっていた。
「くそっ」
とめどなく溢れて来たのは怒りと悲しみ。それを当てつけるように三重奏の箱を握った。
力を込めると箱は簡単に折れ曲がり、行き場を失ったチョコがテーブルを転がる。
「これしかなかったんだ」
無理矢理にでも自分を納得させなければ、今にも気が狂いそうだ。三重奏のパッケージへ描かれた楽譜のように、一糸乱れぬ予定調和の未来へ向かうしかない。
あの子に救われた花蓮の未来。それに感謝して生きる道もあった。けれど、そう思った時に浮かんだのは、あの子の儚い笑顔だった。
「これじゃ、君が……」
その儚い笑顔が、心を捉えて離さない。
「君だけが、救われないじゃないか」
花蓮と引き替えに失われた笑顔。今はまだ誕生する予定のない命だけれど、このままでいいのかという葛藤が生まれてしまった。
子どもを持ったことのない僕には、その本当の重みはわからない。けれど、何ものにも代えがたい大事な存在だということはわかる。
〝娘に何かあったら、自分の命を投げ出したって、ちっとも惜しくない〟
愛澤課長は真面目な顔で言い切ると、照れくさそうに笑っていた。間違いなく本心だ。
それほど大きな存在をなかったことにしていいのかという想いが、花蓮を想う心と激しくぶつかり合った。でも、壮絶な終わりは既に知らされている。僕らは破滅へ向かう五線紙の上で、頼りない音を上げる脆弱な存在でしかない。
そう悲観していた時、新たに響いた音があった。
あの子が見たのは、僕が自ら終止線を描いた譜面だ。そこで踏みとどまることができたなら、違う譜面が完成するはずだと。
「これは僕のエゴかもしれない。でも……」
病気になると知りながら、彼女を誕生させるのは罪かもしれない。僕の自己満足のために、あの子へもう一度、苦しみを与えようとしているだけなのかも。
しかし、未来のことなど誰にもわからない。もしかしたら、未来の僕らが命を落とした翌日に、世界のどこかで特効薬が発明されていた可能性もゼロじゃない。
あの子の未来を奪った僕の罪は消えない。それを背負いながら一縷の望みに賭け、今度こそ娘と向き合って共に歩む。そう決心した。
未来の僕がなぜ、心中などという結末へ思い至ったのかはわからない。けれど、娘の命まで奪うなんて正気とは思えない。僕には、あの子への償いと未来を守る責任がある。花蓮には本当にすまないと思うけれど、こんな生き方しか選べない。
遙佳さんに出会ったこと。そして不思議と彼女に惹かれてしまうのも、逃れられない運命なんだろう。花蓮を失ったはずの僕が恋をして、結婚を決意したほどの相手だ。何が起きても不思議じゃない。
でも、これでようやく演奏を始められる。遙佳さんと娘を巻き込んだ、本当の三重奏。ここからどんな音を奏でられるかは、僕の生き方ひとつで決まる。
「絶対に、守り抜いてみせる」
転がり落ちたチョコレートをひとつ摘まみ、奥歯で思い切り噛み砕いた。





