根比べ
心を静めようと努めても、そう簡単に行くわけがない。彼女を傷付けるのは心苦しいけれど、僕が求める未来を手に入れるためには冷徹になるしかない。
「別れる理由なんて単純だよ。この整理整頓された部屋を見なよ。全て君が、君の思うように、使いやすいように変えてきたんだ」
僕はおどけたように両手を挙げてみせた。
「うんざりなんだ。息が詰まるんだよ。ここは僕の城だ。君がどこまでも入り込んできていい場所じゃない。この部屋みたいに僕まで尻に敷かれる未来を想像して、ほとほと嫌になったんだ。そんな未来は必要ないんだ」
想定していた質問に早口でまくしたてた。
実際の所、部屋の住み心地に文句はない。花蓮が初めてここを見た時には物置きのようだと呆れ、遊びに来る度、少しずつ丁寧に整頓してくれたのだ。
僕の訴えを黙って聞いていた花蓮は、小さな溜め息を残してこたつへ入った。
「気が付かなくてごめんなさい。そんな風に思われてたんだね。本当にごめんなさい」
しおらしい姿に胸が締め付けられた。申し訳ない気持ちで一杯だ。
それでも、ここで優しさを見せるわけにはいかない。
「これからは気を付けるから。全部直してあなた好みになるから。気に障ることがあったら、なんでも遠慮なく言って」
懇願する声に胸を抉られた。彼女から伝わってくる想いの強さが傷口を更に深くする。
僕の心が折れるのが先か、彼女の心が離れるのが先か。ここからは根比べだ。
「これからなんてないんだよ。もう手遅れなんだ。僕たちは根本的に合わないんだよ。性格の不一致ってやつさ。わかるだろう?」
「そんなことないわよ。これまでだって仲良くやってきたじゃない。それに、付き合って一年も経ってないんだよ? たったそれだけの期間で何がわかるって言うの?」
「ある程度は見えるよ。僕だって、真剣に君と向き合ってきたんだ。その上で合わないと判断したんだよ。正直、完璧主義の君には付いていけない。僕は適当で、楽をして生きたい性格なんだ」
「本当に勝手ね」
「そうだね。でも、それが僕だから」
精一杯突き放し、マグカップを手に取った。右手の震えが伝わったのだろう。半分ほど残っていたコーヒーが微かに揺れている。
そこへ口を付け、温くなってしまった液体を流し込む。花蓮への愛情までも全て飲み込み、奥底へ閉じ込めてしまえばいい。何も考えず、このまま彼女を突き放すのだ。
「駆が私に付いていけないって言うなら、私も駆の勝手には付き合わない」
強い声に、マグカップを覗いていた視線を花蓮へ移した。
円い縁の向こうで、切れ長の目が僕をじっと見据えている。
「この二週間、私がどんな気持ちでいたかわかる? 本当の私は、あの子が消えた日に死んだの。今の私は、あの子に生かされているだけの抜け殻みたいなものよ」
「抜け殻って、自分をそんな風に言うなよ」
そうつぶやくのが精一杯だった。カップに左手を添え、テーブルへ静かに置く。
「あなたが必要なの。駆は、私があの時に死んでいたことを知ってる、ただひとりの証人だから。ここからの人生は、新しく渡されたノートみたいなものなの。何を描けばいいのかわからない。あなたが一緒にペンを持ってくれないと、線一本すら描けないのに」
彼女がそんな風に考えていたなんて思いも寄らなかった。いつも明るく、凜としている印象しか知らない。僕は本当に、彼女の上辺しか見ていなかったのだ。
「花蓮なら大丈夫。何も迷うことなんてない。自由に、思うままに生きればいいんだ。生かされているなんて、ただの思い過ごしだよ」
その言葉には何の根拠も保証もない。彼女にとって慰めにもならないだろう。
厳しい批判が来ることを覚悟していたけれど、彼女からの反応はない。マグカップから視線を上げ、恐る恐る横顔を伺った。
「駆は頑固だからなぁ。きっと、いくら私が食い下がったところで無駄なんだろうね」
花蓮はテーブルの端へ置いていた三重奏の箱を引き寄せ、勢いよくラッピングを剥いだ。
「どうしたの?」
呆然とする僕の顔を眺めて、花蓮は口元へ微かに笑みを浮かべる。その意味を探っていると、彼女はチョコを一粒取り上げた。
「駆もどうぞ」
戸惑いながらも、勧められるまま一粒取った。ふたりで同時に食べると、馴染み深い味わいが口の中へ広がった。
「あなたが好きな物を味わってみたいと思ったの。それに、あの子に負けたままじゃ悔しいじゃない。でも、本当に苦い……」
眉根へ皺を寄せ、顔のパーツが中心に集まってしまうのではないかと思うくらい口をすぼませている。そして堪りかねたように僕のマグカップを奪い、コーヒーを含んだ。
「それ、ブラックだよ」
咄嗟に声を上げていた。花蓮はコーヒーを飲めないはずだ。
案の定、彼女は顔をしかめて舌を覗かせる。
「何がどう美味しいのかわからないわ。あなたたちとは好みが合わないわね」
苦笑する彼女に釣られて吹き出した。
あの子に対抗意識を持っている辺り、恐らく花蓮は全てお見通しだ。僕は、彼女の手の平の上で踊らされているに過ぎない。この勝負は最初から負けていたということだ。
花蓮も声を上げて笑っている。それは、僕たちが恋人として奏でる最後のハーモニー。
短めの演奏は闇へ紛れるように流れ、ついに沈黙の瞬間が訪れた。
何もかもが終わったのだという諦めにも似た気持ちが広がり、それを自分の罪として、しっかり受け止めた。





