僕たちの未来
「こんな時間まで、どこに行ってたの?」
スーパーの買い物袋をドアノブへ残し、倒れ込むような勢いで近付いてきた花蓮。咄嗟に抱き止めると、ひんやりとした頬が触れた。
仄かな甘い香りと冷えた体。それらが五感を通じて流れ込んでくる。
「中で待っていれば良かったのに」
部屋のスペアキーは預けてある。いつでも好きな時に入れるはずなのに。
「約束もしてないのに、勝手に上がるなんて失礼でしょう。そこまで図々しくないわよ」
申し訳ない気持ちで一杯だ。花蓮の気持ちを考えず、遙佳さんを追うことばかりに必死だった自分を情けなく思ってしまう。
答えを出さなければならない。花蓮の細い体を抱きしめながら、苦い想いが沸き上がってくるのを感じていた。
部屋へ招き入れてすぐ、花蓮はそれに気付いた。こたつの上へ残された三重奏の箱。
「ごめん。邪魔だよね」
それを手に取り、サイドボードの上へ移動させた。はっきりとは言葉にしないけれど、互いに気まずい空気が満ちてゆく。
「それ、あの子に貰ったものだよね? まだ食べてなかったの?」
口調は穏やかなのに、問い詰めるような刺々しさを感じる。思い過ごしだろうか。
「なんだか、開けるのが勿体なくてさ」
「そうなんだ。新しいの、買ってきたのに」
「ありがとう。すぐに食べ切っちゃうし、いくつあっても困らないから」
身も心も逃げ道がない。
部屋へ上げたことを後悔したけれど、後の祭りだ。平静を装い、互いの腹を見せ合うようにコートを脱いだ。
花蓮は一緒に夕飯を食べようと、買い出しを済ませてくれていた。手早く支度が進み、こたつの上へすき焼きが出来上がる。
「駆、最近は元気がなかったから、奮発していいお肉を買ったのよ。どんどん食べてね」
「ありがとう」
こうしてきちんと顔を合わせるのは二週間ぶりか。花蓮の顔にも疲れが見えるけれど、それを隠して明るく振る舞う姿が痛々しい。あの少女が消えた瞬間、僕等は互いに傷を負い、恋人同士を演じ続けているだけなのかもしれない。
花蓮が奮発したというだけあって、肉はとろけるような柔らかさだ。玉子も上等に違いない。赤みを帯びた黄身は濃厚な味わいだし、割り下の味付けも申し分ない。しかし、どうしてこんなにも印象に残らない食事なのだろう。僕は、食べ物を口へ運び咀嚼するという動きを繰り返す、ただの人形と化していた。
何となく点けているテレビでは、クイズ番組が放送されている。それをぼんやりと眺めながら、ふたりで答えを予想し合った。
久しぶりに会ったというのに、何を話していいのかわからない。花蓮は、僕からの言葉を待っているようだった。
淡々と食事が終わり、食器をシンクへ運ぶ。花蓮が洗い物をしている間、僕は彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、こたつの中でぼんやりとテレビの続きを観ていた。
「ねぇ、駆」
「なに?」
水音に混じって背後から聞こえた花蓮の声。返事をしながらマグカップを口へ運ぶと、コーヒーの苦みをいつもより強く感じた。
「この二週間、ずっと不安だったの……ひょっとしたら駆は、遙佳さんを捜しに行ってるんじゃないかって。そればかり考えてた」
やはり見透かされていた。驚きよりも気まずさが勝った。
それはコーヒーへ落としたミルクのように、じわりじわりと奥底へ浸透してゆく。鼓動が早鐘を刻む。
「そのこと、なんだけどさ……」
もうこのままにはできない。今夜ここで、僕たちの未来に答えを出さなければならない。
いつの間にか水音は止んでいた。直ぐ後ろに花蓮の気配を感じる。
振り向かず、短く息を吐いた。心を落ち着け、マグカップを静かにテーブルへ置く。
「僕と、別れてくれないか」
「やっぱり、そんなこと考えてたのね」
間髪入れずに応える声。背後の気配が一層近付き、柔らかな感触と共に抱きしめられた。
長い髪が頬に触れ、鎖骨から肩を撫でてゆく。そして、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「駆は、あの子が急にいなくなったから、不安や責任を感じてるだけなのよ……大丈夫、私が側にいる。何の心配もないから」
囁きと共に、誘惑するような吐息が鼓膜を伝った。続け様、耳たぶへの優しい口づけ。
しかし、そんな女神の誘惑でも僕の心は揺るがない。未来は既に決定付けられている。
「花蓮、やめてくれ」
体を揺すり、その温もりを振り払う。
「本当にごめん。でも、この話にあの子は関係ないんだ。別れるって決めたのは、僕の身勝手な気持ちなんだ」
マグカップの中でコーヒーが揺れている。それと同様に心へ生まれた波紋は、さざ波にまで膨れ上がっていた。このまま、花蓮が大人しく引き下がってくれるとは思えない。
隣で四つん這いになっていた彼女は、徐に僕の横顔を覗き込んできた。
「あの子が原因じゃないって言うなら何? 理由を教えて。私に原因があるなら直すから」
無駄に傷付けたくない。それが本心だ。本来なら、宝石箱へしまって大事に保管しておきたい程の大切な人。それを僕は、自ら傷付けようとしている。
自分で自分が信じられなかった。花蓮以外を好きになるわけがない。彼女以上の人はいない。そう確信していたはずなのに。
でも、僕は変わってしまった。大澄花蓮と夢里遙佳。ふたりの女性を同時に想い、同じだけの熱量で向き合おうとしている。そんなことができるはずはないし、許されないとわかり切っているのに。





