待望の時間
翌日の土曜日。花蓮と連絡を取る気にはなれず、午前中から奏の森へ出掛けた。
今日もまた、あの人に会えることを願って。
だが、期待とは裏腹に遙佳さんが現れることはなかった。
僕は落ち着かない気持ちを抱えたまま、公園のベンチで本を読んで過ごした。でも、読んでいたはずの物語は一行たりとも記憶に残っていない。
公園の帰り道でも、気付けば彼女のことばかり考えていた。
会ってどうするつもりなのか。どうしたいのか。それは自分でもわからない。ただ、彼女に会いたいという想いだけが日に日に強くなっている。
目には見えない力から、答えを迫られている。そんな焦りを覚えながら迎えた翌日。僕はもう一度、本を片手に公園へ足を運んだ。
願を掛けるつもりで、初めて会った噴水へ向かった。側に置かれたベンチへ腰掛け、昨日の続きとなるページを開く。
しかし、数行を読み始めたところで違和感を覚えた。よくよく考えれば、それもそのはず。昨日の内容すら把握していないのだから、理解できないのは当然だ。
苦笑して本を閉じる。コートのポケットから三重奏の箱を取り出し、一粒食べた。
「そう簡単には行かないよな」
書籍なら、また始めのページへ戻ればいい。しかし、僕の時間は動き続けている。開演されてしまった演奏は、止めることなど叶わない。
せめて、手の中へ収まった物語だけでも思い通りにしたい。そう思った僕は、冒頭から読み直すことにした。
この小説は二年ほど前に発売して話題になった作品だ。前から気になっていたけれど、ハードカバーは大きくて場所も取る。こうして文庫化されるのを心待ちにしていたのだ。
物語の主人公は、悪夢に悩まされる男性。現実でも次々と不可思議な事件が起こり始め、夢と事件の謎を解き明かすミステリー作品だ。
そして気付けば、昨日の僕は何を見ていたのかと悔やまれるほど話にのめり込んでいた。続きが気になって、文章を追う目が、ページをめくる手が止まらない。
「ちは」
ページをめくる音に混じって、何かが聞こえた気がした。
いや、きっと気のせいだ。とにかく今は、この物語の続きを見届けなければならない。脇目を振る時間はない。
「こんにちは」
気のせいじゃなかった。僕を現実へ立ち返らせたのは、耳に心地よい女性の声。
弾かれたように顔を上げると、ピンクベージュのコートが映った。柔らかな笑顔に目を奪われる。この一週間、会いたいと待ちわびていた相手が、すぐそこにいた。
けれど、本に没頭していたせいで思考が切り替わらない。突然の事態に対応しきれず、狼狽えてしまった。
「随分と熱心に読まれていますね。邪魔をしては失礼かと、通り過ぎようかとも思ったんですが……どんな本なんですか?」
ゆっくりと近付いてきた彼女が、覗き込むように顔を近付けてきた。たったそれだけのことなのに、心が歓喜に震えてしまう。
「え? あぁ、これですか? ちょっと前に流行った物を、今更ですけど読み始めて。幻魔の迷宮、っていうミステリーです」
「知ってます。私も大好きです。繊細な心理描写にぐいぐい引き込まれますよね。特に、夢と現実の秘密を知った主人公が、秋谷さんと心理戦を繰り広げる所とか、もう最高で」
「そこ、まだ読んでないんだ……」
「あっ」
不意に沈黙が訪れた。彼女は驚きと後悔をはらんだ顔で、口元を押さえている。
「ごめんなさい。私、余計なことを」
「いや、大丈夫ですよ。僕も、彼が怪しいと思っていたから。予想的中ってわけだ」
「本当にすみません」
今にも泣き出してしまいそうな様子に、心根の優しい人だという深層を垣間見た。それと同時に、そこへ付け込もうという自身の狡猾な一面にまで気付かされてしまったけれど。
「じゃあ、夢里さん。罪滅ぼしと思って、一つお願いしてもいいですか?」
彼女は不思議そうな顔で小首を傾げた。その仕草に釣られて、白いニット帽が揺れる。
「散歩に付き合ってもらえますか? 夢里さんは花にも詳しいし、色々教えてください」
「そんなことでいいのなら、喜んで」
花が開くようなふわりと明るい笑顔。心が癒やされ、晴れやかな気持ちにさせられる。
ようやく待望の時間を手に入れた僕は、それを心底楽しんだ。彼女の一挙手一投足を見逃すまいと注目し、その言葉へ耳を傾けた。
でも、楽しい時間ほど過ぎ去るのは速い。公園をゆっくりと一周する頃には日が暮れ、物悲しさと名残惜しさを感じてしまう。出入口へ置かれた石碑に近付きながら、別れが迫っていることを実感させられた。
今日はあくまでも偶然の再会を装わなければ。この流れで食事へ誘うのもおかしな話だ。
「夢里さん。来週もこの公園へいらっしゃいますか? さっき話した小説。良ければ持って来ますよ」
「ありがとうございます。守時さんが絶賛する作品、ぜひ読んでみたいです」
こうして次の約束を取り付け、大満足の成果を上げることができた。軽くなった心と体で、意気揚々とアパートへ戻る。
外階段を上がる足取りも軽い。次に彼女と会った時には何を話そうか。そんなことを考えていたけれど、二階通路へ上がった途端、頭の中が真っ白になった。
僕の部屋のドアへ、もたれるように立つ人影。互いの視線が絡み合い、泣き笑いのような複雑な表情を浮かべる彼女がいた。
「花蓮……」
それ以上、言葉が続かない。





