缶コーヒー
翌日になっても、気分は一向に晴れなかった。仕事に身が入らず、集中できない。花蓮からのメッセージにも応答しないばかりか、社内でも何となく彼女を避けてしまった。
夢里遙佳。偶然とはいえ彼女に出会い、同じ時間を過ごしたことを後ろ暗く感じている。今の僕では、花蓮の顔をまともに見られない。
正午の休憩時間にも、花蓮からのメッセージが届いた。僕を心配する内容かもしれないけれど、それを確認する気にはなれなかった。
日中は外回り。帰社後も必要最低限の仕事をこなして、逃げるように帰宅。そして、ひとりの部屋で抜け殻のようになりながら、遙佳さんと少女のことをぼんやりと考え続けた。
それは、花蓮を避ける生活が三日ほど続いた日の夕刻のこと。
「守時。これ、きちんと確認したのか?」
課長へ打合せ用の提案書を出すなり、疑念の混じった険しい視線を向けられた。
手にされた用紙はひしゃげ、苦しみに身をよじっているように見える。その様は、今の僕が置かれた現状と重なって映り、心の奥が僅かに痛むのを感じた。
「数字は滅茶苦茶。誤字脱字も酷い。どうした? 月曜からずっと様子が変だな。体調が悪いなら、この書類を片付けてさっさと帰れ。頼むからシャキっとしてくれ」
「すみません。もう一度、見直します」
苦しみ続ける用紙を救うように、課長の手から書類を受け取った。
そうしてデスクへ戻ると、黙々と書類の修正作業に没頭した。余計なことは考えず、目の前の数字だけに集中する。その間だけは、現実の煩わしさから目を背けることができた。
☆☆☆
「守時」
書類を仕上げ、オフィスビルを出て間もなく、背後から呼び止められた。
「どうしたんだよ?」
振り向いた先には、息を切らして駆け寄って来た世良の姿があった。
「どうしたじゃないだろ。それは俺のセリフ」
屈託なく微笑む彼の手には、二本の缶コーヒーが握られている。恐らく、ビルの入口に設置されている自販機で買ってきたんだろう。
「無糖と微糖。どっちがいい?」
「いつもなら無糖なんだけど」
体が糖分を欲しているのがわかった。そこまで計算して微糖も押さえてくる世良は、やはり世話焼きという称号が相応しい。
「ありがとう」
差し出されたコーヒーを受け取った。
「ちょっとだけ話せるか?」
世良はそう言うなり、植え込みを囲む石積へ腰を下ろした。
特に断る理由もない。どうせ家に帰るだけで、何か用事があるわけでもなかった。
「話すのはいいけどさ。コートも着ないで平気なのか?」
「そんなことは、どうでもいいんだよ」
世良の苛立つ顔を見たのは久しぶりだった。最後にこの顔を見たのは、花蓮と付き合う少し前だったはずだ。
〝さっさと告白しちまえよ。花蓮ちゃんモテるんだから、誰かに取られても知らねぇぞ〟
今の関係が壊れることを恐れ、どうにも踏ん切りが付かなかったあの頃の僕。それを見かねた世良の叱咤に背中を押され、ようやく一歩を踏み出すことができたのだ。
「どうしたんだよ。急に」
世良の隣へ腰掛ける。コーヒーのタブを開けた途端、芳ばしく甘い香りが鼻を突いた。
口へ含むと、ほんのり甘いコーヒーが舌の上を滑るように渡る。体の中が温まると同時に、生きている心地を実感した。
そういえば今週に入ってからというもの、何を食べていたのかも、どんな味をしていたのかも覚えていない。
この一本のコーヒーが。いや、世良の心遣いが僕を救ったのは間違いない。
そう、僕は生きている。こうしてしっかりと心臓は鼓動を刻み続けている。やるべきこと、目指す場所、それはこの数日でぼんやりと見えてきたはずなのに、そこへ踏み出す勇気が持てずにいる。結局僕は、花蓮と付き合う前の自分と何も変わっていない。
眼前の通りを車が流れてゆく。ヘッドライトが闇夜へ描く光の帯は、必死に輝こうと藻掻く想いの強さを想起させた。
「そういえばさ。気付いてたか?」
隣で同じようにコーヒーを飲んでいた世良が、徐に口を開いた。
「岩見の奴、おまえのミスを知った途端、鬼の首を取ったような顔をしやがって。こっそり、愛澤課長の席に行ったんだぜ」
「なんで課長の席に?」
忌々しげに顔をしかめている世良。何をそんなに怒っているのかがわからない。
「俺、捜し物の振りをして、盗み聞きしたんだよ。そうしたら岩見の奴、おまえを音和建設の案件から外した方が良いと思いますよ、なんて言うんだぜ。ここ数日、凡ミスも多いし、問題が起きてからでは遅いです、ってよ」
世良は舌打ちして、コーヒーを口へ含んだ。
僕のために怒ってくれている。それが素直に嬉しかった。世良といい、花蓮といい、僕は良い人たちに恵まれている。
手の中に収まった缶コーヒー。指先から伝わってくる熱以上に、心の中がじんわりと温かくなった。





