新たな始まり
頭の中は真っ白だ。こんなにも胸が苦しいのは走っているせいなのか。足がもつれそうになるのを必死に持ち堪え、彼女へ近付くため、右、左と懸命に足を運び続ける。
何が僕の心をこれほど急かすのかはわからない。ただ、そのままにしておけなかった。どうしても彼女に一目会いたい。そんな強い想いが僕を突き動かしていた。
互いの距離が残り五メートル程に迫った時だ。それは天が起こした些細な悪戯か。不意にやってきた強い横風が、女性の白いニット帽を攫った。空を見上げた姿勢のせいで、脱げやすくなっていたのかもしれない。
「あっ」
女性の慌てる声が聞こえた。主の元を離れた帽子は、走り寄る僕のすぐ側へと落ちた。
即座に足を止め、拾った帽子の埃を払う。右手へ伝わる微かな温もりは、ニット帽が初めから持っていた暖かさなのか。それとも、彼女の温もりが残っているからなのか。
「すみません。ありがとうございます」
ボブカットの髪へ手を添え、駆け寄ってくる女性。その顔を見た途端、あの子は母親似だと確信した。女の子は父親に似ると聞くけれど、確率的なことであって絶対じゃない。
垂れ目がちで、おっとりした優しい印象の顔立ち。厚めの上唇は、面倒見がよく世話好きな人が多いと雑誌で読んだことがある。そしてこれらの特徴は、間違いなくあの少女にも継承されていたものだ。
でも、その時の僕はどんな顔をしていただろう。息をするのも忘れるとはまさにこのことだと、後になって思った。
コートを目にした瞬間、その可能性を考えなかったわけじゃない。それでも万に一つの可能性として、あの少女が再び現れたという奇跡を信じなかったわけでもない。
いや。今の僕にとって、それらはどうでもいい些細なこと。彼女が今、目の前にいる。それだけが、それこそが全てだ。
僕の運命を左右するはずだった女性。
彼女を目にした瞬間、世界は時間という概念を失った。全てが止まり、色も音もない。モノクロの沈黙した世界で、僕にはもう彼女しか見えていなかった。
そうして立ち尽くし、眼前の相手へ釘付けになっていたのは僕だけじゃない。彼女も同じ世界へ導かれ、僕らに許された行為は呼吸と瞬きを繰り返すことだけ。
どれだけそうしていたのかわからない。不意に彼女の唇が動き、言葉を紡いだ。
「あの。突然こんなことを言ってすみません。どこかでお会いしませんでしたか?」
ゆったりと流れる旋律のような、綺麗な声だった。それが僕の鼓膜を伝い、心の奥にある何かを静かに揺さぶり続けている。
眼前の彼女は記憶を辿り、いぶかしげな表情を見せた。けれど、答えに行き着くことはないと僕だけが知っている。
「ひょっとして、入院経験はありませんか?」
「入院?」
問い返しながら、あの少女が話していた内容を思い出した。ショッピング・モールで事故に遭った僕らは、病院へ運ばれるはずだった。その搬送先のことかもしれない。
「あいにく、これまで大病もなく生きてきて、入院経験はないんですよ」
すると、彼女は自嘲気味に微笑んだ。
「すみません。看護師をしているもので。ひょっとしたら、過去にお世話をさせて頂いた方かと思って。これでも、人の顔を記憶するのは自信があったんですけどね」
優しく人懐こい笑み。見ているこちらの心が和んでしまうのだから、入院で不安を抱える患者には、より好印象のはずだ。
「もしかしたら、以前にどこかで会ったことがあるのかもしれませんね。僕も、初めて会ったとは思えなくて」
キザな言葉だったと思いながら、気恥ずかしさを誤魔化すようにニット帽を差し出した。
「ありがとうございます」
彼女が手を出した拍子に、互いの指先が触れ合った。驚きと喜びで僕の鼓動は高鳴り、それを合図としたように世界は再生した。
色を取り戻し、時を刻み始める。それはまるで、新たな始まりを思わせる高鳴り。
空を舞う鳥の鳴き声。噴水の水音。優しく吹き流れる風の音と、それが揺らす木々のざわめき。幾層もの音が溶け合って、混ざり合い、素晴らしい旋律を届けてくれる。
指先が触れたという些細なことなのに、驚きと恥ずかしさで帽子を取り落としてしまった。思わず息を飲むと、彼女は帽子を見事に受け止めてくれた。
「すみません」
慌てて謝ると、彼女は再び微笑んだ。
「なんだか私たち、謝ってばかりですね」
「確かにそうですね」
顔を見合わせ笑い合うと、胸を満たす温かな想いに気付かされた。これまでに感じたことがないほどの至福に満ちたぬくもり。
平穏とはこういうことを言うんだろう。なぜかふと、そんなことを思った。それと同時に、彼女ともっと一緒にいたいという欲求までもが込み上げてくる。
彼女のことを深く知りたい。僕のことを知って欲しい。今ここに、互いが確かに存在していると感じ合いたい。
不思議だけれど、この想いを抑えられない。
「少し歩きませんか?」
自然と、そんな誘い文句が飛び出していた。
「はい」
迷うことのない即答に、僕の心が躍る。
「そう言えば、名前も名乗っていませんでしたね。守時駆と言います」
僕にとっては形式だけの行為だ。
「私は」
彼女の目を真っ直ぐに見つめ返すと、口元が自然と緩んでしまった。
「夢里遙佳と言います」





