不協和音の三重奏
いつの間にか、こたつの中で朝を迎えていた。体を丸めて眠る姿は胎児のようだ。
全身がだるく、気分も最悪。節々の痛みに顔をしかめて起き上がり、目覚めの決まりとして、コーヒーを淹れるためにキッチンへ。
無音に耐えきれずテレビを点けたけれど、今日は日曜だ。ニュースは終わり、情報番組から呑気な笑い声が上がっている。
いつもなら近所のカフェで購入した豆を挽くのだけれど、さすがにそんな気力はなかった。食器棚からドリップのパックを取り出し、心を落ち着けるようにゆっくりとお湯を注ぐ。
カップから立ち昇る芳醇な香り。それを胸一杯に吸い込む瞬間がとても好きだ。僕が考え得る最高の贅沢のひとつ。その至高とも言うべき黒い液体を口へ含むと、深煎り豆の苦みを強く感じた。それが覚醒を促してゆく。
そうしてカーテンを開けると、先へ広がったのは快晴の青空。そこへ浮かんだ雲を目にした途端、あの少女の顔が頭を過ぎった。
全ては幻だったんじゃないだろうか。映画や小説じゃあるまいし、未来から娘が助けに来るだなんて荒唐無稽な話があるだろうか。
室内へ視線を戻すと、テーブルの上に置かれた三重奏の箱が目に付いた。あの少女が、消える間際にくれたものだ。
玄関脇のキッチンには、洗い終わった二つのマグカップが見える。一つは花蓮。もうひとつは来客用。
「夢じゃない……全部、現実なんだ」
今ひとつ信じられない。けれど、心の一部が失われたような虚無感は確かにある。それが、気怠さに一層の拍車をかけていた。
未来から来たという娘のお陰で、僕は失うはずの未来を守り抜いたらしい。でも、それは僕が知ることのなかった出来事であって、よかったねと声を掛けられたとしても、どこか他人事のような響きを持っている。
そして未来を改変してしまった代償として、生まれてくるはずだったあの子は存在を失った。それを目の前で見せられたからこそ、この虚無感が生まれたのだ。
今は、彼女が急に消えてしまったことに寂しさを感じているだけだろう。明日からまた仕事が始まれば、日々の忙しさに紛れて、この想いは消えてしまうはずだ。
気持ちを切り替えるため、風呂へ入ることにした。バスタブへ熱い湯を張り、虚無感すら流すべく念入りに体を洗った。
入浴を済ませると、不意に口寂しさを覚えた。落ち着きのない奴だと苦笑しつつも、何かをして気を紛らわせようとしているのだと気付いた。テーブルへ置いた三重奏が目に付いたけれど、それに手を付けるのは勿体ない。仕方なく、コンビニへ向かうことにした。
コートを着て外へ出ると、温かな陽射しが心地よかった。外出したのは正解だ。あのまま部屋へ閉じこもっていたら、少女の存在が頭から離れなくなっていたに違いない。
コンビニで、三重奏の他に缶コーヒーとサンドイッチを購入した。そのまま何の気なしに歩き、どこかで体を落ち着けようと、近くの大型公園まで足を伸ばした。
奏の森と刻まれた石碑を通り過ぎ、大きなモニュメントをくぐる。舗装された並木道を進んで中央広場へやってくると、噴水脇の時計は正午を示していた。
まだ昼間だというのに、寒空の下ではさすがに人気が少ない。それは今の僕にとって、とても有り難いことだった。
ベンチに座り、コーヒーを飲む。サンドイッチを食べ終えた後、チョコレートを一粒食べた。苦みと甘み。待望の味わいが体の中へゆっくりと染み渡ってゆく。いつもの日常に戻ったのだという安心感がある。
そして何気なくスマートフォンを覗くと、メッセージの受信に気付いた。差出人は花蓮。
〝大丈夫? ハルちゃんが消えた後、抜け殻みたいだったから心配してるんだよ。ひとりになりたいんだろうと思って帰ったけど、連絡をくれたらすぐに飛んで行くから〟
受信は朝の七時だ。連絡してこないということは、気を遣ってくれているんだろう。
〝心配かけてごめん。まだ頭の中が混乱していて、今日はひとりで整理したい〟
返信した後で、ぶっきらぼうな物言いだったかもしれないと反省した。明日、顔を合わせた時に謝ればいい。
食べ終えたゴミをコンビニ袋へまとめていると、三重奏のパッケージに描かれたピアノと楽譜が目に付いた。
結局、僕と花蓮と少女では、思い描く音を奏でられなかった。花蓮と少女、どちらかしか救えない結末。僕らには最初から、それぞれに異なる楽譜が与えられていた。不協和音の三重奏になることは決まっていたのだ。
スマートフォンの画面へ視線を戻すと、通知連絡が残っていることに気付いた。いつの間にか、一通のメールを受信している。
〝パパへ〟
わずか三つの文字を目にしただけなのに、心臓を掴まれたような衝撃に襲われた。
加速してゆく胸の動悸。大きく深く息を吐き、動揺を静めながらメッセージを開いた。
〝急に驚いたよね? パパを待っている間に、花蓮さんからアドレスを聞きました〟
メッセージは昨日の夕方に受信している。記憶を辿ると、タクシーでアパートへ戻っていた時間だ。でも、彼女はいつ、どうやって、このメッセージを作成したのだろう。
〝コンタクトレンズ型デバイスの使い方まで忘れていたなんて、私もどうかしてるね。メッセージを送ったのは、残された時間でどうしてもこれだけは伝えておきたかったから。パパの身に起こったことを知りたければ、この続きを読んでください。知りたくなければ、このメッセージは消してください〟
その現実から逃れようと、咄嗟に画面から顔を上げた。
知りたいけれど、知りたくない。それに知ったからといって、彼女が消えてしまった今、僕には何もできない。
その時だった。視界の先へ、空を見上げる女性の後ろ姿が映った。白いニット帽が目を引くけれど、何よりも存在感を放っているのはピンクベージュのムートンコート。
「まさか」
その時の僕はどうかしていたんだろう。居ても立っても居られなくなり、彼女の姿を求めて駆け出していた。





