卒業アルバムに書けなかったこと
卒業式を数日後に控えた放課後、教室はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
机の上には配られた卒業アルバムが広がり、クラスメイトたちは寄せ書き用のページに次々とメッセージを書き込んでいる。
笑い声とペンの擦れる音が混ざり合い、時折「これからもよろしく」「絶対忘れない」といった言葉が弾むように飛び交った。
けれどその喧騒から少し距離を置いた場所で、葵はひとり、ページを開いたまま止まっていた。
空白の「メッセージ欄」。そこに陽介の名前が印刷されている。
手にしたペンが微かに震える。
書きたい言葉は頭の中で何度も繰り返される。
ーー好きでした。ありがとう。
しかし、指先は動かない。紙の白さがまぶしくて、まるで言葉を拒むかのようだった。
仕方なく、無難な言葉を書いて閉じてしまう。
「また会おうね」
「元気でね」
そんな簡単な言葉では、心の中の想いの大半が消えてしまいそうで、胸が締めつけられた。
やがて放課後の教室に残ったのは葵だけになった。
机に突っ伏し、未完成の思いを抱えたまま、ため息をひとつ。
外の夕陽が窓から差し込み、黒板に長く影を落としている。
そのとき、ドアの開く音が静寂を破った。
「……まだいたのか」
振り返ると、陽介が鞄を肩にかけたまま、少し驚いたような表情で立っていた。
「うん、ちょっとね」
慌ててアルバムを閉じ、鞄にしまう。
陽介は窓際の席に腰を下ろし、自分のアルバムを広げる。ページをめくる指先が少し迷い、けれど確かに何かを探しているようだった。
「なんかさ……書きたいことって、意外と書けないもんだな」
彼の言葉は軽いようで、でも胸に刺さった。
「……え?」
葵が顔を上げると、陽介の横顔は真剣そのもの。
沈む夕陽の光が頬を照らし、瞳に微かに赤みを映している。
「みんなにいろいろ書いてもらったけど、自分が相手に書こうとすると、全然言葉出てこない。なんか、軽くなっちゃう気がして」
彼の声は小さく、でも確かに聞こえる。
寂しさを含んだその横顔は、葵の心をぎゅっと締めつけた。
葵は唇を噛む。
――もしかしたら自分と同じ気持ちを抱えているのかもしれない。
「……じゃあ、どうするの?」
小さな声で問いかけると、陽介は少し笑った。
「直接伝えればいいんだろうけど……なかなかさ」
その言葉に、教室の沈黙が一層深く感じられた。
窓の外では夕陽がさらに赤みを増し、長い影が教室の中で揺れている。
言いたい。今こそ。
でも、喉が詰まって声にならない。
しばらくの沈黙のあと、陽介がぽつりと口を開く。
「……俺、書けなかったことある」
「……うん」
葵は小さく頷く。
「でも、卒業式の前に、いつかちゃんと伝えたい」
言葉はまだはっきりしない。けれど、その曖昧さが胸を熱くした。
自分と同じように、彼も何かを抱えている。そう思うだけで、目の奥がじんと湿った。
葵はそっとアルバムを胸に抱き、気づかぬうちに指先でページの端を押さえる。
風のように差し込む夕陽が、教室の机や椅子、二人の影を長く引き延ばす。
時間は静かに、でも確実に過ぎていく。
空気は冷たいのに、胸の奥はなぜか温かい。
二人だけの沈黙が、やけに長く感じられた。
そしてその中に、互いの存在を確かめるような心地よい緊張が混ざる。
葵は心の中でそっと願う。
卒業式までに、勇気が出ますように。
窓の外の光は徐々に消え、教室は夜の気配に包まれていった。
けれど、この沈黙、この胸の高鳴りは、きっと卒業式の日にも、二人の心の中で色褪せずに残るだろう。




