運動場の星空
秋が深まり、夜の風は少し冷たさを帯びていた。
文化祭から数日後の放課後、葵と陽介は何となく帰るタイミングを逃し、人気のなくなった校舎を抜けて運動場に出ていた。
グラウンドはすでに真っ暗で、街灯の届かない場所は漆黒に沈んでいる。
足元の芝生に露が滲み、踏むたびに冷たく湿った感触が靴を通して伝わる。
遠くで部活の掛け声が途切れ、やがて完全な静けさが広がった。
それは、放課後の校舎の静けさとも、夜の図書館の静謐さとも違う、広大な世界に置き去りにされたような感覚だった。
「わ、すごい……」
葵が思わず息を呑む。
頭上には、校舎の屋根すら追いつけないほど広い夜空があった。
星々が冷たい輝きを放ち、漆黒のキャンバスに散らばっている。
瞬きする光のひとつひとつが、遠い過去の記憶や小さな願いを閉じ込めているようで、葵の胸をそっと震わせた。
「ここ、意外と見えるんだな」
陽介がポケットに手を突っ込みながら空を見上げる。
「街の灯りで全然ダメかと思ってた」
「うん……でも、こんなに星ってあったんだ」
葵は小さく頷き、夜の空気を深く吸い込む。
風が頬をかすめ、髪の毛が揺れるたびに心臓が跳ねる。
二人は芝生の端に腰を下ろし、仰向けになった。
制服に夜露が染みるのも構わず、ただ静かに、無言で空を見つめる。
冷たい空気に包まれているのに、隣にいる陽介の温もりが妙に近くて、葵の心臓は落ち着かなかった。
「……なあ、あれ見える? 三角形になってるやつ」
陽介が指をさす。
「え、どれ?」
「ほら、あの明るい星と、そのちょっと左下……」
葵の指先が彼の手と重なりそうになり、慌てて引っ込める。
暗がりでよく見えないけれど、陽介の横顔は少し笑っているように見えた。
「違うけど……まあ、それでもいいか」
「なにそれ、適当だなあ」
そんなやりとりに、葵は自然と安心したように笑みをこぼした。
笑い声は小さくても、夜空に柔らかく溶けていくようだった。
しばらくして、風が強く吹き、葵の髪を乱す。
その瞬間、陽介が自然に手を伸ばし、乱れた髪を軽く押さえてくれた。
指先がほんの一瞬触れただけなのに、葵の頬は熱を帯びる。
「……星、きれいだな」
陽介の声は低く、夜の静けさに溶けて消えそうだった。
「うん」
「なんか……いつまでも見てられる」
葵は答えられず、ただ星空を見上げた。
言葉を口にしたら、何かが決壊してしまうようで、喉が詰まる。
胸の奥がじんと熱く、手のひらの汗まで感じられる。
二人の間には、言葉にできない空気が静かに流れた。
時間が止まったような、永遠に続きそうな感覚。
やがて校舎の時計が遅い時刻を告げる。
カチリ、カチリ、と針の音が、静かに現実を呼び戻す。
「そろそろ帰るか」
「……うん」
運動場を出るとき、葵はふと振り返った。
広い闇の中に残された星の輝きは、まるで「またおいで」と言っているように見えた。
隣を歩く陽介とその景色を、心に焼きつけるように強く記憶に刻んだ。
足音が芝生をかすかに蹴る音と、夜風のざわめきだけが、放課後の長い一日の終わりを告げていた。
この夜空の光も、二人だけの秘密の景色として、ずっと胸の奥に残るのだろう。




