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廃音楽室のピアノ

 その日の放課後、校舎には雨の匂いがほのかに残っていた。

 窓の外は薄曇りで、夕暮れの光は鈍く廊下に差し込む。

 誰もいない静かな廊下を、葵は陽介と並んで歩く。

 床に響く自分たちの足音が、いつもより大きく聞こえた。

 陽介がふと立ち止まり、壊れた取っ手の扉を指差す。

「なあ、この音楽室って、もう使われてないよな」

「うん、廃音楽室。新しい棟にピアノも移されたから」

「ちょっと寄ってみようぜ」

 そう言って扉を押すと、古びた蝶番がきしむ音を立てた。


 中に入るとひんやりとした空気が広がり、わずかに埃と木の匂いが混じる。

 窓は半分しか開かず、そこから差し込む風が薄いカーテンを揺らしていた。

 奥には、古びたアップライトピアノが置かれている。

 誰も弾かなくなって久しい楽器は、ところどころ鍵盤が黄ばんでおり、蓋の上にはうっすらと埃が積もっている。

 葵はそっと手を伸ばし、鍵盤の感触を確かめる。冷たく、少しざらついていた。

「弾けるのかな?」

 首をかしげる葵に、陽介は肩をすくめて笑う。

「弾けないだろうけど……まあ、やってみるか」

 彼は椅子に腰を下ろし、鍵盤に指を置いた。

 そして恐る恐る押した最初の音は、ひどく濁っていた。

「うわっ、なんだこれ。音痴なピアノだな」

 思わず吹き出す葵。

 それでも陽介は真剣な顔で両手を動かし、ぎこちない旋律をつなげようとする。

 メロディは何度もつまずき、音の隙間に不自然な沈黙が挟まれる。

 でも葵の耳には、その拙ささえも温かく響いた。

「なにそれ、全然曲になってないよ」

「バカにすんな。今のは即興だ」

「即興っていうか、迷子だよね」

 二人で笑い合う。

 その笑い声は古びた教室に反響し、空気の静けさを和らげた。


 やがて、陽介が鍵盤に手を置いたまま天井を見上げる。

「……俺さ、音楽もスポーツも、何も極められなかったな」

 軽い口調に聞こえたが、その奥には小さな寂しさが滲んでいる。

 葵はそっと隣に腰を下ろした。

「……ねえ。完璧じゃなくても、いいんだと思う」

「え?」

「うまくできなくても、誰かを笑顔にできるなら、それで十分」

 陽介が横を向く。

 夕方の光が窓から差し込み、彼の瞳の中に淡い光を映す。

 その視線をまともに受け止めた瞬間、葵の胸が熱くなり、言葉が喉に詰まりそうになった。

「……じゃあさ、今の、俺、ちょっと笑わせただろ?」

「うん。すごく」

 二人はまた声を合わせて笑った。

 だけどその笑いは、どこか切なく、壊れやすい硝子のようだった。


 古びたピアノの音と、ふたりの笑い声が混ざり合い、夕暮れの音楽室はまるで小さな劇場のように感じられる。

 奥の棚に並ぶ楽譜や埃にまみれた椅子、天井にかかる鈍い光も、すべてが一枚の絵のように美しかった。

 やがて外の空は藍色に沈み、廊下から遠い足音が聞こえた。

 時間が動き出した合図のように、現実が少しずつ戻ってくる。

 陽介は立ち上がり、ピアノの蓋をゆっくり閉める。

 鈍い音がして、室内の響きがすっと消える。

 葵は名残惜しさを胸に抱きながらも、笑顔で彼を見つめ返した。

 この一瞬の拙い旋律は、きっと耳に残り続けるだろう。

 ふたりだけの、かけがえのない「音楽」として。

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― 新着の感想 ―
「それでも陽介は真剣な顔で両手を動かし、ぎこちない旋律をつなげようとする。 メロディは何度もつまずき、音の隙間に不自然な沈黙が挟まれる。」 すごく素敵な文章です。 音の隙間に生まれる沈黙。 まずその…
静かで暖かな物語ですね…! 時間がゆったりと流れ、その中に今を噛み締める2人がいる。 光景が脳裏に浮かび、胸がキュッとなります。 どことなく『耳を澄ませば』を彷彿とさせる、甘酸っぱい物語。 とても素敵…
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