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屋上の風


 放課後の校舎は、昼間の喧騒をどこかに置き忘れたように静まり返っていた。

 葵は階段を一段一段下りながら、胸の奥に小さな緊張を感じていた。

 廊下を歩く足音が自分の心臓の鼓動と重なるようで、少しだけ息を飲む。

 窓の外はまだ薄いオレンジ色を残しつつ、空の端には群青がにじみはじめている。

 無意識に歩みを緩める。少しでも、この時間が長く続いてほしい。そんな願いを抱えながら。

 すると隣を歩く陽介が、ふと立ち止まり、意味ありげに首をかしげた。

「なあ、屋上行ってみるか」

「……え? 屋上って、立入禁止でしょ」

「だからこそだろ。最後に、一回くらい」

 悪戯っぽい笑みが、夕暮れの影に揺れる。

 いつもならためらう場面のはずなのに、葵の胸は妙に高鳴った。卒業まで数日。そんな小さな背徳感さえも、記憶に残したくなる。

 二人は誰もいない階段を上り、最上階の踊り場にたどり着く。

 扉には赤字で「立入禁止」と貼り紙がされていた。錆びた取っ手を陽介が握ると、少し音を立てて開いた。


 夜風が流れ込み、葵の頬を撫でる。

 扉を抜けると、屋上は想像より広く、灰色のコンクリートと鉄のフェンスが広がっていた。夕暮れの残照と夜の気配が混ざり合い、空気が甘く、冷たく感じられる。遠くの街では灯りがともり始め、車のヘッドライトが小さな光の線となって動いていた。

「……すごい」

 思わず息をのむ葵に、陽介が「だろ」と笑った。

 二人はフェンスのそばに立ち、並んで景色を見下ろす。

 風が強く、髪を揺らし、制服の裾をなびかせた。

 その風に紛れるように、陽介がぽつりと呟く。

「……俺さ、中学まではずっとサッカーやってたんだ」

 葵は横を向く。陽介は空を見上げながら、淡々と話を続ける。

「夢はプロになることだった。でも、怪我してから全然ダメで……結局、高校でも続けられなかった」

「……そうだったんだ」

 初めて聞く話だった。

 陽介がいつも強がっているように見えていたのは知っていたけれど、その裏にはこんな挫折が隠れていたとは思わなかった。

「バカみたいだよな。結局、何者にもなれなかった」

 苦笑いに混じる声は、風に溶けそうに小さく、でも確かに胸に届く。

 葵は胸の奥がじんと痛む。自分の弱さと重なり合うように感じられたからだ。

「……私もね、本当は変わりたいってずっと思ってた」

「変わりたい?」

「そう。人見知りだし、自分の気持ちをはっきり言えなくて、友達に合わせて笑ってるだけで……でも、心の中では、もっと違う自分になりたいって」

 言いながら、声が少し震えた。

 こんなこと、誰かに打ち明けたのは初めてだった。

 風がそれを運び去る前に、陽介の耳に届いてほしいと願った。


 しばらく沈黙が流れる。

 ふと視線を向けると、陽介は笑っていなかった。からかいの色もなく、真剣な眼差しで葵を見ている。

「……俺は、葵のままでいいと思うけどな」

 不意に放たれた言葉に、胸が熱くなる。

「そんなに無理して変わらなくても、葵のことちゃんと見てるやつはいる」

 息が詰まった。

 その「誰か」が誰を指すのか、問い返す勇気は出なかった。

 風がいっそう強くなり、夜の匂いが濃くなっていく。

 街の灯りは増え、空にはひとつ、またひとつと星が瞬き始めた。

 葵はそっとノートを取り出し、屋上から見える景色を軽くスケッチする。

 自分の手の中に残る鉛筆の感触が、今の時間を胸に刻むようで、じんわりと温かかった。

 夕暮れの屋上で交わした言葉と風の感触。

 不意に明かされた弱さと、互いの本音。

 そのすべてが、葵の心に深く刻まれていった。

 放課後の屋上は、短くとも、永遠のように感じられた。

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― 新着の感想 ―
屋上ってなんか特別な場所だったような。 気軽に行けなかったからでしょうか。 そんな屋上に行く、 扉を開けた瞬間の風から、ヘッドライトの光の線。 主人公たちとその場に居る面持ちでした。 そしてお互いに…
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