番外編・夏の再会
蝉の声が、町中に途切れることなく降り注いでいた。
葵は浴衣の帯をそっと直しながら、友人たちと一緒に夏祭りの屋台を歩いていた。
焼きそばの香ばしい匂い、金魚すくいの水のはじける音、わたあめの甘い香り。
どれも、子どもの頃から慣れ親しんだ夏の風景だったはずなのに、今日はどこか違って感じられた。
春に卒業してから数か月。新しい生活に慣れようと必死だった日々の中で、葵はときどき陽介のことを思い出していた。
夕焼けの教室、雨に濡れた帰り道、夜の運動場の星空。
どの記憶も鮮やかで、甘くて少し痛い。
桜の下で交わした「また会おう」という約束は、まだ心の中で宙ぶらりんのままだった。
屋台の賑わいを進む葵の耳に、突然聞き慣れた声が飛び込む。
「お、当たった!」
振り返ると、まるで時間が止まったかのように思えた。
人混みの向こうに、陽介がいた。
浴衣ではなくTシャツに短パン姿。少し背が伸び、表情もどこか大人びている。
けれど、あの放課後の柔らかい笑顔は、変わらずそこにあった。
「……陽介?」
葵の声は自然と震える。
陽介もまた目を見開き、言葉を失ったように数秒見つめ返す。
やがて、少し照れたように頭をかきながら、彼は口を開く。
「なんだよ、偶然すぎるだろ」
「……ほんとにね」
屋台の提灯の光が二人の顔を優しく照らし、影を揺らしていた。
葵の胸の奥がざわめく。会いたいと思っていた――でも、いざ目の前に現れると、何を話せばいいのかわからない。
「……元気にしてた?」
ようやく口にした言葉に、陽介は小さく頷いた。
「まあな。葵は?」
「私も……なんとか」
短く、ぎこちない返答。でも、それだけで離れていた時間が一気に埋まる気がした。
人混みの中で肩が触れるたび、心がほんの少し跳ねる。
屋台のざわめきから少し離れ、二人だけで歩くことになった。
夜空に大輪の花火が上がる。ドン、と音が胸に響き、光が二人の横顔を瞬間的に照らしては消えていく。
「なあ、覚えてるか。あの日のこと」
花火の音に紛れて陽介が呟いた。
「一生に過ごすの、最後の放課後だって思った日」
「……覚えてるよ」
陽介は空を見上げたまま、小さな声で続ける。
「俺、あれからずっと考えてた。……あの時、ちゃんと言えばよかったなって」
葵の胸が強く鳴る。
彼が言葉を口にするたび、心臓の奥が熱を帯びる。
でも陽介はそれ以上言わず、夜空の花火を見上げたままだった。
ドン、と夜空に咲く光が、言葉の続きを静かに覆い隠していく。
葵もまた、喉の奥にせり上がる想いを飲み込んだ。
好きだと言いたい。でも、今はまだ。
花火が終わり、夜の祭りは少し落ち着きを取り戻す。
屋台の明かりが柔らかく揺れ、提灯が微かに風に揺れる。
二人は肩を並べて歩きながら、言葉にならない思いを抱えたままだった。
夏の夜風が吹き抜け、葵の髪をそっと撫でる。
屋台の匂いや金魚の水の音、遠くで響く太鼓の音が、まるで思い出のページをめくるように心に重なる。
「……また、こうして会えるんだね」
葵が小さく呟くと、陽介は少し笑って頷いた。
「もちろんだろ。夏はまだ長いしな」
それだけの言葉なのに、葵の胸は温かく満たされる。
未完成の約束は、まだ揺れ動いている。
でも、確かに繋がっている。
二人の影が長く伸びる夜道を歩きながら、葵は思った。
過ぎ去った放課後も、そしてこれからの放課後も、すべてが、少しずつ二人のものになっていくのだと。




