番外編・ノートの余白
卒業式が終わったあとも、葵の机の引き出しには、一冊のノートがひっそりと残されていた。
表紙はすっかり擦れて色あせ、角は丸くなり、長い時間と手のぬくもりを刻んでいる。
授業中に落書きしたイラストや、思いついた言葉、ちょっとした出来事の感想が綴られた、まさに「自分だけの余白ノート」だった。
春休みのある日の午後、葵は部屋の整理をしていて偶然そのノートを見つけた。
埃を払い、手に取ると、懐かしい感覚が胸に広がる。
指先でページをめくるたび、過去の放課後の光景が次々に浮かび上がった。
動物のイラスト、意味のない模様、授業中にぼんやりと見た夕焼けのスケッチ。
どれも幼くて、稚拙で、でもあの時間の匂いや空気まで閉じ込めていた。
微かにノートから紙の香りが漂い、葵の心をそっと撫でる。
ページを進めていくと、最後の方に見覚えのない文字があった。
葵の知らない字で、青いインクのペンでこう書かれていた。
『この時間を忘れないように。ありがとう。』
驚きとともに、葵はペンの色を確かめた。
鉛筆ではなく、確かに青いボールペン。
──陽介だ。
ふと思い返す。あの日の放課後、二人で図書館に座り、本をめくりながら時間を過ごしたとき。
あのとき、無言でページを押さえた指の感触。
夜の音楽室でぎこちなく鍵盤を弾いた瞬間。
帰り道の雨に濡れながら肩を貸してくれたあのジャケットの温もり。
陽介は、自分が気づかないうちに、その思いをノートの隅に残していたのだ。
葵は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、自然と笑みがこぼれた。
その一瞬だけで、過ぎ去った放課後が、まるで今ここに戻ってきたかのように鮮やかに蘇る。
ノートの余白に刻まれた文字が、まるで「覚えていてくれたんだ」と語りかけてくるようだった。
ページを閉じたその瞬間、携帯が震えた。
画面に表示されたのは「陽介」の名前。
短いメッセージが届いていた。
『桜、見に行かないか?』
葵はノートを胸に抱き、深く息を吸い込む。
ノートに残された過去の想いと、今ここに届いた未来の誘い。
どちらも、過ぎ去った放課後と、これからの放課後を繋ぐ証のように思えた。
外を見ると、まだ春の風がやさしく街を撫でていた。
窓の外の桜は、淡いピンクの花びらを揺らしながら、二人の再会を祝福しているかのようだった。
葵は小さく笑みを浮かべ、携帯の画面に手を伸ばした。
指先で「返信」を押すその瞬間、心臓が少し速くなる。
返信の文字を打ちながら、葵は気づく。
放課後は終わったのではなく、形を変えて続いているのだと。
過去の思い出はノートに、未来の時間はこれからの歩みに、静かに紡がれていく。
画面に打ち込まれた文字は、簡単で、でも二人の距離をぐっと縮める魔法の言葉。
『うん、行こう』
その送信ボタンを押した瞬間、部屋に春の光が差し込み、ノートのページがわずかに揺れる。
葵は胸にノートを抱き、窓の外の桜を見上げた。
これからも、放課後は二人のもの。
ノートの余白のように、自由で、温かく、静かに続いていくのだと。




