春のはじまり
卒業式から数週間が過ぎ、街には柔らかな春の匂いが満ちていた。
葵は新しい環境にまだ馴染めず、胸の奥に少しだけ落ち着かない気持ちを抱えながら、鞄を肩にかけて歩いていた。
通学路の電車に揺られ、窓の外の景色をぼんやり眺めていると、桜並木が視界に広がった。
卒業の頃にはまだ堅いつぼみだった桜が、今は一斉に咲き誇り、淡いピンクの花びらが風に舞っていた。
風が通るたび、花びらは軽やかに空を漂い、地面にじんわりと積もっていく。
立ち止まった葵は、胸の奥で思わず名前を呼んでしまった。
陽介。
彼と過ごした日々が、春の光に重なって蘇る。
夕焼けに染まった教室、雨に濡れた帰り道、夜の運動場で見上げた無数の星空。
どの記憶も鮮やかで、少しだけ痛く、でも温かかった。
「一緒に過ごす最後の放課後」、そう思ったあの日から、時間は確かに流れた。
もう同じ教室に集まることはない。けれど、どこかで彼もまた、この春を見上げている気がしてならなかった。
そんなとき、柔らかな声が背後から響いた。
「……葵?」
振り返ると、そこに立っていたのは見間違えようのない姿。
制服ではなく、少しラフな私服姿の陽介。
けれど、変わらない笑顔がそこにあった。
「……陽介!」
思わず駆け寄る葵に、陽介は少し照れくさそうに頭をかきながら言った。
「近くまで来たからさ。……なんか、桜、すげえな」
「うん。きれいだね」
二人は並んで歩き出す。
沈黙はあったが、居心地の悪さはなく、むしろ自然な落ち着きがあった。
花びらが髪や肩に落ちるたびに、二人で笑いながらそっと払い合う。
その仕草だけで、あの日々がまるで戻ってきたように感じられた。
歩きながら陽介がふと立ち止まり、空を見上げる。
「なあ、葵」
「うん?」
「“最後の放課後”って、前に言っただろ。……俺、あれ違ったと思う」
葵は少し首を傾げる。
「……違った?」
「うん。今日みたいな日も、また“放課後”だし。……たぶん、これからも続くんだと思う」
その言葉に、葵の胸がじんわり熱くなる。
最後じゃない。始まりなんだ。
桜の下で見上げる空は、どこまでも広がり、二人を包み込むように青く澄んでいた。
微かな風が吹き、花びらが二人の肩や髪を撫でる。
葵はそっと、息を整えて言った。
「……そうだね。これからも」
陽介は安心したように笑みを浮かべ、ふわりと風に揺れる花びらを指先で弾く。
少し離れた歩道では、小さな子どもたちがはしゃぎながら花びらを追いかけ、笑い声をあげていた。
その光景が、二人の時間をさらに柔らかく包み込む。
歩みを進めながら、葵は心の中でそっとつぶやく。
あの日、最後だと思った放課後は、実は今日へとつながっていた。
そして今日の放課後は、これからの無数の時間の始まりなのだ、と。
陽介が小さな声で言う。
「またさ、こうして桜の下で会えるといいな」
「うん、きっとまた会えるよ」
二人の足元に花びらが舞い積もり、春の光が二人を優しく包む。
桜の香りと風の音、遠くで揺れる街灯の光が混ざり合い、世界がほんの少しだけ魔法にかかったように感じられた。
そして葵は心の奥で、小さな約束をする。
これからも、陽介と一緒に、いくつもの放課後を歩いていく。
始まりの春に、二人の足音だけがそっと響き、淡い花びらとともに舞い上がっていった。




