最後のチャイム
卒業式を翌日に控えた放課後。
教室の窓から差し込む光は、やわらかく、どこか名残惜しさを帯びていた。
天井に反射する光は淡く揺れ、黒板には「卒業式準備」の文字がまだ残っている。
机や椅子は、明日の式のためにきちんと整えられ、床には雑多な紙片やチョークの粉ひとつ残っていなかった。
葵はスケッチブックを開き、白いページに鉛筆を走らせる。
描いているのは、見慣れた教室の風景。
窓から差し込む光、並んだ机。
そしてその隅に、小さくひとりの男子の姿を描き足す。
「……やっぱり下手だなあ」
思わず苦笑する。
でも、この絵を見れば、ここにあった空気や想いを思い出せる気がした。
未来の自分に伝えるための、ささやかな“メッセージ”。
ふと、ドアが静かに開き、陽介が入ってきた。
「まだ残ってたのか」
「あ……陽介こそ」
「ちょっとな。俺も書いてたんだ」
彼は机の上にノートを広げ、走り書きの文字を見せる。
『悔しかったことも、笑ったことも、全部忘れない。』
『未来は怖いけど、進むしかない。』
ページの端には、不器用に「ありがとう」と書かれていた。
「……なんか、すごく陽介らしい」
「らしいって、どんなだよ」
「真っ直ぐで、ちょっと不器用」
葵が笑うと、陽介は少し照れくさそうに視線を逸らした。
二人の間に、窓の外から差し込む光が揺れている。
校庭では、卒業式の準備を終えた生徒たちの声が遠くにかすかに響く。
「……明日で、終わりだな」
陽介がぽつりと呟く。
「うん」
「でも、なんか実感わかない」
「私も。……でも、こうして残せば、ちゃんとあったって思えるよ」
葵は描きかけのスケッチブックを彼に見せる。
不恰好だけれど、そこには確かに二人で過ごした教室の姿があった。
陽介はしばらく黙って見つめ、やがて小さく笑った。
「……いいな、これ。俺の言葉と、お前の絵。セットで残したら、未来の誰かに伝わるかもな」
「未来の誰かって……誰?」
「さあな。もしかしたら俺たち自身かも」
そう言って机にペンを置くと、陽介はふと顔を上げた。
教室に響く最後のチャイムが、ちょうど鳴り響いた。
放課後を告げる音は、いつもと同じなのに、今日は特別に思える。
二人は同時に窓の外を見た。
夕陽に染まる校庭が広がり、その先には未来へ続く道があるように見えた。
校庭の影が長く伸び、夕暮れの空が淡く朱色に溶けていく。
その光景に、心が静かに揺れる。
葵は心の中で、そっと呟いた。
本当は、好きって書きたかった。好きって言いたかった。
でも今は、この時間ごと大切に覚えておきたい。
陽介もまた、自分のノートを閉じながら小さく息を吐く。
伝えたいことは、まだ胸の奥にある。
けれど、その想いは確かにそこにあり、未来の自分に託すように静かに息を潜めていた。
最後のチャイムの余韻が、教室の中に静かに漂う。
それは、終わりの合図であると同時に、新しい始まりを告げる音でもあった。
二人は互いを見つめ合い、言葉にしなくてもわかる何かを胸に抱えたまま、そっと席を立った。
夕陽はゆっくりと沈み、教室の中を柔らかい光で満たした。
校舎に残る影、鉛筆の跡、二人で交わした視線。
すべてが、静かに心に刻まれていく。
この一瞬の記憶を抱え、葵と陽介は、まだ見ぬ未来へと足を踏み出していくのだった。




