夕焼けの教室
最後の授業のチャイムが遠くで鳴り終わってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
葵は机に突っ伏すように座り、無意識にノートを転がす指先を眺めていた。
窓の外では、西の空が鮮やかな朱色に染まり、まるで空全体が燃えているかのようだった。
光がガラス越しに差し込み、黒板の表面を朱に塗りつぶす。その上で、白いチョークの粉まで温かく輝いているように見える。
机の列は長い影を床に落とし、教室全体がひとつの絵画のように静止していた。
放課後の教室はいつもなら、友達の笑い声や椅子を引く音、帰り支度を急ぐ足音、廊下から漏れる部活動の掛け声で満ちている。
けれど今日だけは、まるで時間そのものが止まったかのような静寂が支配していた。
葵は机に広げたノートを眺めながら、ペンを指先で転がす。文字を書くふりをしては止まり、空白の余白に小さな落書きを描いては消す。猫の影、咲きかけの花、意味のない幾何学模様……描いた先からすぐに線を乱し、また新しい形を描き足す。
手は動くのに、頭の中は整理されず、思考はまとまらない。
卒業まで残りわずかという事実が、頭の片隅でちらついた。
(あと数日で、もうここには来られなくなるんだ)
その意識が胸の奥にぽっかり穴を開け、心を不安でいっぱいにする。
葵は息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。けれどその呼吸すらも、胸のざわめきを抑えることはできなかった。
教室の前方で、椅子がカタンと小さな音を立てた。
その音は静寂に響き、普段なら気にならないはずなのに、胸に鋭く刺さる。
葵が顔を上げると、教壇のそばに陽介が立っていた。
鞄を片手に、教科書を胸に抱えている。帰り支度をしていたのだろうが、なぜか彼はまだ帰らず、窓の外をじっと見つめていた。
「……まだいたんだ」
思わず、葵は小さく声をかけてしまった。
驚くほど弱く、震えるような声だった。自分でも、なぜこんなに心がざわつくのか理解できなかった。
陽介が振り返る。
夕陽の光に照らされた横顔は、輪郭が金色に縁取られ、普段より少し大人びて見えた。その瞬間、胸の奥が跳ねるように痛んだ。
「お前こそ。もう下校時間だぞ」
ぶっきらぼうな口調。けれど、その響きにはいつもと違う、不思議な優しさが混じっていた。
「……なんとなく、帰りたくなくて」
「俺も」
陽介はそう言って、窓際の空いた席に腰を下ろした。机に片肘をつき、頬杖をついたまま遠くの空を眺めている。
夕陽に照らされたその背中は、見慣れているはずなのに、どこか遠くの人のようで、葵は息を飲んだ。
教室には二人きり。
偶然なのか、それとも運命なのか、胸の奥でざわめく予感があった。
一緒に過ごす最後の放課後かもしれない。
喉が渇き、言葉が見つからない。
窓の外ではカラスが一羽、鳴きながら校舎を横切る。羽音が反射して、静寂をさらに濃くする。
葵は無意識にノートに視線を落とし、ペンを走らせた。気がつくと、そこには小さく「ありがとう」とだけ書かれていた。
慌てて手で隠す。陽介は気づかない。外の景色に目をやったままだ。
ぽつりと、陽介が呟いた。
「……卒業したら、みんなバラバラになるんだな」
「うん」
「なんか、まだ実感わかない。ずっとここに来る気がしてる」
苦笑にもため息にも聞こえない声。横顔を見つめる葵の胸は締めつけられるように痛んだ。
本当は「私も同じだよ」と言いたかった。けれど言えば涙があふれそうで、声が出せない。
教室は、夕陽で赤く染まった空気に包まれ、時間が止まったかのようだった。
言えないまま心にしまった想いが、喉の奥で震える。
「好き」という一言が舌の先まで上がってくる。
でも声にはならず、代わりに静かな沈黙が二人を包んだ。
短い放課後の時間。
けれど、葵にはその短さが、かえって永遠のように感じられた。
チャイムが遠くで鳴る。響きが胸に残り、心を切なくさせる。
陽介が立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「行くか」
葵も机を閉じ、ノートを鞄にしまう。
廊下に出ると、夕陽はもう沈みかけていて、校舎の窓ガラスに朱色の残光が映っている。
振り返ると、さっきまでいた教室の中に、二人の影が長く伸びて残っていた。
その影は、今日の放課後が終わったことを告げるしるしであり、同時に、まだ消えずに続いていくかすかな予感でもあった。
葵は深く息を吸い込み、胸の奥に灯った小さな温もりを感じた。
ーー最後かもしれない放課後。けれど、この時間は、私の心にずっと残る。




