第二十四話
初めてのガリツィアの朝は、濃い朝靄と湿った空気の中で始まった。
明朝から視察に向かっているロズルチュ村は、標高の高い盆地に位置する村である。
アントンは軍用馬車の座席で、霧にかすむ丘の斜面を眺めていた。
その眼差しの少し先には、村と石造りの教会の屋根が見える。
「殿下、まもなく到着です」
カロリ少佐が地図をたたみながら声をかけた。
「ここがロズルチュか。確か、ルテニア人が多数派だったな」
「はい。その中でもギリシャ・カトリック教徒の農民が主です。ポーランド系地主が周辺の土地を所有し、近隣町からはユダヤ人商人が定期的に出入りしています。帝国ではよくある民族の入り乱れた構図ですが、それ故に摩擦も絶えません」
アントンは深く頷いた。
「表向きの安定の裏には、必ず何かがある。それを確かめに来た」
村の広場には、わずかに人の気配があった。
井戸の近くで農婦が水を汲み、パンとチーズを積んだ荷車を引く老農が牛を追っている。
広場で耳にするのはルテニア語だが、兵士の声にはポーランド語が混じり、荷車の主がユダヤ語訛りで返す姿もあった。
アントンは広場を抜け、まず教会へと向かった。石造りの外壁には、雨風によって削られた十字が刻まれている。
入り口にいた神父がアントンの姿に気づき、深く頭を下げた。
「大公殿下。ようこそお越しくださいました。ご案内もせず失礼いたしました」
「突然の訪問を許してほしい。少し、この村のことを知りたいだけです」
神父は黙って頷き、礼拝堂の奥に案内した。
祭壇の裏の簡素な執務室には、小さな机と本棚、それに帳簿の山が整然と積まれていた。
アントンは軽く礼をとった後に、神父に村の記録の閲覧を要請した。
「神父様、この村の記録を閲覧させていただけますか?」
「分かりました。ご関心があるかは分かりませんが、村で起きた小さな騒ぎの記録があります。公にはならないような事柄ばかりですが…」
神父は帳簿を一冊、アントンの前に差し出した。
古びた紙には、淡いインクで筆記体のポーランド語が綴られている。
アントンは目を通しながら、ある項目で指を止めた。
「五月二十八日夜、村北の農具倉庫にて火災。出火原因は油灯の転倒とされる。ルテニア人青年が軽傷、証言に食い違いあり。これは事故ではないということか?」
神父はしばし黙り、慎重に言葉を選んだ。
「正式な報告では事故とされました。しかし、関係者の間では仕返しだとささやかれております。先に、ルテニアの若者が地主の監督と争った件がありましたので」
アントンは帳簿をそっと閉じた。
「小さな火がいつか大きな火種になる。帝都から遠く離れた村であっても、それは同じということか」
————
昼過ぎ、視察団は村を一巡し、井戸脇で短い質疑の場を設けた。
アントンは装飾を排した礼装のまま、三人の住民に話を聞いた。
最初は老農夫。日焼けした手で帽子を外すと、ルテニア語訛りのポーランド語で話し出す。
「殿下、うちの畑の水路は、地主の都合で去年から止められました。訴えても誰も来てはくれません」
次はパン職人の妻。ユダヤ系で、町から週に一度だけ来ているという。
「商いはなんとか続けておりますが、近頃は夜道に出るのも怖うございます。誰が狙っているのか分からないのです」
最後は地主側の代理人を名乗るポーランド人。
「これ以上混乱が広がれば、軍の威信にも関わるでしょう。調査は結構ですが、無用な噂が立つことは避けていただきたい」
アントンは静かに聞き取り、それぞれに軽く頷いた。
だが、代理人のその表情には、ピリついた緊張感が走っていた。
夕刻、カロリ少佐が小走りに駆け寄ってきた。
「殿下、村北の納屋で、異変がありました。現地兵からの報告です。詳細はまだ分かりませんが…遺体があるとのことです」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
アントンは目を閉じ、短く息を吐いた。
「それは、間違いないことなのだな?」
「はい…残念ながら」
「そうか…なら案内せよ。現場に居合わせてしまった以上、私は行かざるを得まい。人の死に、この様に触れるのは初めてだがな…」
夕暮れ時になり、外の霧はもう晴れていたが、空気の重さは朝よりも濃くなっていた。




