5 共に
地獄に仏、ではなくて泥濘に朝陽。
「朝陽、だよね?」
タロが確信を持てなかったのは、いるはずのない相手だと思っていたからだけではない。
降って来た朝陽の顔が、炭で黒く塗られていたからだ。
「ああ、俺だ。タロの名前に反応するだろうかと思って呼んでみたら、食いついてくれて助かった」
湖畔に戻った朝陽は、麟太郎のくれた炭を手に取った。
添えられていた紙は電車のなかで読み込んであったので、迷いはない。
顔を炭で汚し、梅の木の入ったリュックを背負って、最期のお守りをズボンのポケットに忍ばせるとタロの名を呼んだのだ。
聞きつけた化け物が現れて、朝陽をタロのいる棲家に引き摺り込むことを狙って。
おかげで朝陽は、とつぜん足元を突き崩して現れた化け物を必要以上に恐れることもなく、タロの元へと降り立てたのである。
「まっさらな状態では悪いものに憑かれるらしいからな、あらかじめ炭で汚しておくと良いらしい。麟太郎さんのアドバイスだ」
「りんちゃんの!」
「ああ、麟太郎さんもお前を無事に連れて帰れるよう、協力してくれたんだ。もちろん清春も。試験問題をかき集めて待っているぞ」
──ふたりがタロのことを忘れてしまっているという話は、いまはしなくていいだろう。そのあたりのことは帰ってから考えればいい。
まずはタロを救い出すため、朝陽が泥のうえに立ち手を伸ばそうとしたとき。
「朝陽! 危ない、オオグライがっ」
タロの悲鳴と同時、ぶぉんと空気を叩きつけるような音。
とっさに転がった朝陽の頭上を太い尾が勢いよく通り過ぎていった。
一撃を避けてほっとしたのもつかの間、尾を振る動きにあわせて体を回転させた化け物、タロいわくオオグライ。
ずんぐりと丸い頭が朝陽たちを向き、ちいさな目が獲物を捕らえる。体勢を崩した朝陽めがけて、巨大な口がぱかりと開かれる。
「ああ!」
逃げて、とタロが声をあげる間もなく降って来たあごが、朝陽の体を泥ごと食らう。
一瞬で朝陽の視界は奪われた。
ごっそりとえぐり取られた足元の泥ごと、波打つ地面に転がされる。
──食われたのか。嚙み潰されなかったのは運がいい。
視界が真っ暗なためはっきりとはわからないが、恐らく朝陽がいるのはオオグライの口のなか。地面にあたる部分が下あごで、ねとりと迫るのは上あごなのか、頬肉なのか。
湿ったものが質量を持って朝陽の体と言わず頭と言わず、全身をねちゃりと包み込む。
噛まずに呑み込もうとしているのか上下のあごが蠢いて、獲物を奥へ奥へと誘っている。
やわらかく食むその動きに、朝陽のなかから何かがずるりと引きずり出される。
こぽ、と浮き上がった泡のなかに見えたのは、幼い朝陽の姿。
同時に、わずかな空虚さが胸をよぎる。
──なんだ、あれは?
泡は口の外へ浮かび出たようで、口中に囚われている朝陽には一瞬しか見えなかった。
──何かはわからないが、痛みが無いのは幸いだな。しかし、このまま飲み込まれてタダですむだろうか。体の内側からならば、いかに巨大な相手であっても戦いようがあるかもしれないが……。
警戒する気持ちと攻撃的な気持ち。
どちらに従うべきか、朝陽が悩む暇はなかった。
倒れた姿勢を再び食もうと口が閉じられた、その瞬間。
オオグライが「ゲエッ」と潰れたような音を立てて、朝陽を吐き出した。
吐き出された先は泥なので、衝撃はあれど痛みは少ない。
降ってくる泥にまみれた朝陽が呆然と見上げるなか、オオグライは短い両手を口のなかに突っ込んで必死で何かを掻き出そうとしている。
まるでひどくまずいものを食わされたかのような仕草に、朝陽は自身の頬をゆるりと撫でた。
「炭が苦かったか……?」
吐き出されたのは、口中に顔が触れた瞬間のようだった。
教えられたとおり顔に炭を塗りつけた朝陽は、苦みもなにも感じていない。
けれどオオグライの口からかすかに上がる白煙を見るに、苦いというよりも熱いのかもしれない。
ありがたいご神木で作られた炭だということだから、少なくともオオグライには効果があったのだろう。
──人をさらう化け物は、ありがたい御神木にとって忌むべき相手、ということなのかもしれない。
「憑かれないというよりも、食われないのか」
朝陽が「本当にありがたい木だな」と実感していると、タロが叫ぶ。
「朝陽、朝陽! あいつ、オオグライは人を食べるより、記憶を欲しがってるんだ。俺の子どもの頃の記憶が無いのは、あいつが持ってったからで。食われないからって、大丈夫じゃないから! 朝陽が空っぽになっちゃう!」
必死に伝えるタロが遠い。
朝陽は吐き出される際に、食われたのとは真反対に放り投げられたらしい。
タロと朝陽の間では、オオグライが巨大をのたうちまわらせている。
──近くに吐き出してくれれば、タロにもこの炭を塗れたのに。
貴重なものだと言っていた炭は元々それほど大きな塊ではなかった。朝陽が使った残りはそれほど多くは無いけれど、それでもタロの身を守れるのなら、使うべきだ。
そう思うが、いちかばちか投げて渡すには、暴れ回るオオグライが邪魔になる。
失敗して泥に沈ませてしまう可能性を考えれば、危ない賭けに出るわけにもいかない。
タロのそばへ寄ろうと踏み出した足は、オオグライによって弾き飛ばされてくる泥でぼたぼたと埋められてしまって、なかなか進めない。
──俺が行けないのなら、向こうから来てもらうしかない。
「タロ、動けるか! こっちに来てくれれば、お前もこの炭を塗れる。これを塗れば、まずいのかなんなのかわからんが、食われないぞ!」
呼びかけている間に、オオグライはのたうちまわるのをやめていた。
疲れ果てたように倒れ伏し、短い四肢と長い尾を投げ出してぐったりとする。
──早くしなければ、オオグライがまた動き出す。
「タロ、はやく!」
「でも」
何を迷っているのか、タロがまごついている間にオオグライは起き上がる。
口からふしゅうと白煙をこぼしながら、太い四肢でのしりとタロに近づいた。
「タロ!」
御神木の炭を味わわされたのがよほど効いたのか。
ぐぱ、と開かれた口のなか。ちいさいけれど鋭い牙がぎらりと光る。
先ほどやわく食んだのとは違って、獲物の肉を食らおうとしているのが伝わってきた。
「タロ、逃げろ!」
叫ぶけれど、タロは泥にどっぷりと浸かったまま動かない。
「何してる、はやく動け!」
「朝陽、俺さあ。俺、記憶を食われるくらいなら、このまま丸呑みされたほうが良いや」
「何を」
何を言い出したのか。
朝陽が問うより先に、タロが「だって」と続ける。
「だって俺、嫌なんだ。朝陽と清春に会って楽しいこといっぱい知った今日までの記憶、渡したく無いんだよ。だって、すごく楽しかったから」
「だからって」
「こいつが落ち着いちゃったら、また記憶とられるかもしれないもん。朝陽の記憶だって、さっきとられちゃっただろう。俺の記憶が食われて、朝陽も俺を忘れちゃうくらいなら、俺、このまま食われたほうが良いかなって。俺でお腹が膨れてるうちに、朝陽が逃げてくれたらそれでいいかな、って」
オオグライが頭を持ち上げたおかげで、隠れていたタロの顔が見えた。
そこに浮かぶ諦めに満ちた笑顔。
避けようともせず、迫る終わりを受け入れようとするその姿に、朝陽は怒った。
「記憶くらい食わせておけ! 戻って、またいくらでも楽しいことをすればいい。清春が夏休みには年齢性別所属混合バーベキュー大会をすると言っていたぞ。俺の地元の花火大会にも来ると良い。港で打ち上げる花火、見たことあるか?」
「バーベキュー……楽しそう……花火大会、いいなあ」
いっしょにしてみたかった。うつろに呟く声に、ますます腹が立つ。
「やればいい。生きていればいくらでもできる! 刀鍛冶の火を七晩絶やさず灯すバイトだってあるし、夏休みの一か月、富士山にこもる山小屋のアルバイトだってあるんだぞ!」
「え、それは面白そう」
ぼんやりとしていたタロの声が、不意にはっきりとした。
タロの興味を引いたのは、清春に調べてもらっておいたアルバイト。
大学生を対象とした変わったものを調べておいてほしい、と伝えてピックアップしてもらったものだった。
その情報は想像以上にタロの気持ちを惹きつけたらしい。
諦めに染まっていた目に光が灯る。
泥に預けられていた手足に力がこもり、抜け出すためにもがきだす。
タロの気持ちを奮い立たせることには成功した。
しかし、もがくタロの真上にはオオグライの口が大きく開かれている。
──このままじゃ間に合わない! 一か八か!
朝陽はリュックから取り出した炭を思い切り投げた。
後方から投げたものがオオグライの口に入るわけもない。それでも体にぶつけて足止めのひとつもできれば、と思ったのだが。
ぶわ、と吹き出した白い花びらが炭のかけらを巻き上げる。
そして花びらとともにオオグライが大きく開いた口の中へ、飛び込ませた。
効果はてきめん。
オオグライの巨体が反りかえる。
割けんばかりに開かれた大口から声は出ないが、泡混じりのよだれをこぼしている。
白目を剥き、びくびくと痙攣するオオグライをよけて、朝陽はタロの元へ急いだ。
「タロ! 手を!」
伸ばした手は今度こそタロをつかみ、朝陽は渾身の力でタロを泥から引き上げた。
「ど、どうするの? どこから出たら良いかわかんないよ」
「俺も知らん。だが、わかるひとを連れてきた。コテイ様!」
朝陽は虚空に向かって声を上げる。
オオグライと真っ向からやり合うには力が弱りすぎている、とコテイは言っていた。
ならば、オオグライの意識が乱れている今なら、きっと。
「脱出口がわからんなど、自信を持って言うことか」
呆れたように言いながらコテイが姿を見せる。
幼い容姿にタロが「子ども?」と目を白黒させているが、説明している時間はなかった。
コテイが振った手から白い花弁が吹き出して、朝陽とタロを覆うように渦を巻く。
竜巻のように巻きながら上へ伸びた花びらが、暗い空間に穴をあける。
「行くぞ、タロ!」
上へ。押し上げるような力に逆らわず進もうとする朝陽の横で、タロが足踏みをした。
「でも、逃げてもあいつ、俺のこと見つけるんじゃ……」
「何とかする。はよう行け」
即答したのはコテイだ。
「何とかって……」ためらうタロの手を引いて、朝陽は迷いなく進む。
「コテイ様が言うなら信じる。行くぞ」
上へ。
花びらとともに朝陽とタロの姿が舞い上がり、消えた。
開かれた穴はすぐに消え、後に残されたのは湿っぽい暗がりでよろめくオオグライと、コテイだけ。
獲物を取り逃したオオグライは、苛立った様子でコテイに向かう。
「何もない空間はさぞや退屈であろうが、他者を食らってきたお前がひとりきり過ごすのは自業自得。おとなしく、静寂をすすっておれ」
言って、コテイはどこからかお守り袋を取り出した。
朝陽のポケットに入っていたはずの、最後のひとつのお守り。
中から転げ出たのは、ひょうの実。虫食いでがらんどうになった実に、コテイはほろほろと記憶を詰める。
小さかった梅の木が、村の人々に愛でられた日々の記憶。
人々に囲まれ、名をつけられて育つうち、力を得た時の記憶。
次々と注ぎ込まれる記憶たちに、オオグライの目が釘付けになる。
今やもう誰も覚えている者のいない記憶を空っぽの実に詰めるだけ詰めて、コテイは放った。
待ち構えたように口を開けたオオグライがぱくり。
ぽこぽこと生まれた泡を見つめて陶然と目を細めた姿に、コテイが笑う。
「我が生のほんのかけらで満足するとは。無闇と長く生きたことも、無駄ではなかったな」
コテイが実に詰めたのは、長い長い時のほんの少し。それでも人がひとり、終わりまで生きるその時間よりは長い記憶だ。
見終わって退屈するころには、もはやタロも寿命を迎えているだろう。
「さて、帰るか。あの者の元へ」
静かに笑ったコテイは花びらを散らし、姿を消した。
あとに残ったのは、古い記憶に夢中になるオオグライだけ。
タロは、長い長い化け物の執着からついに逃れたのだった。
〜暗きもの 完〜




