2 確かなつながり
支度を終えた朝陽はひとり、電車に乗っていた。
行先は滋賀県。
タロの行方を考えたときに、思い出したのだ。
お面様に貼り付かれた状態で滋賀県へ向かおうとしていたと、清春が話していたことを。
タロに過去の記憶はない。
それでも過去がなかったわけではない。白い梅の花が見せた光景は夢のなかであったけれど、朝陽の意識が作り出したものではなく、本当にあった景色なのだと感じていた。
きっと、あの場所は存在していて、あの日々は確かにあったのだ。
ならば無意識下で目指した土地こそ、ゆかりがある場所なのではないかと、考えたのだ。
──保護されたのも琵琶湖のほとりであったと聞いたことだしな。
叶うことなら、タロが保護されたときの話も聞きたかった。
当時の状況がわかれば、行方を探す手がかりになるかもしれない。
そのために大学の学務に行って保護されたあとに暮らしていた施設について訊ねてみたのだけれど。
「個人情報ですので」
その一言で教えてもらえなかった。
それだけならば、仕方がないと割り切れただろう。むしろほいほいと教えられるほうが不安になる。
けれど話はそれだけに止まらなかった。
麟太郎から「無闇に探し人の名前を呼ぶと、さらったものに勘付かれるかもしれないわ」と言われていた。そのため、タロの名は出さずに聞いたのだ。
すると。
「学生寮に住んでいたのが、ひとりだけ……?」
「ええ、そうです。そのように記録されています。ここ数年、ひとりきりですね。あなたの言う一回生の学生の名前は……見つけられません」
今年度、学生寮に住んでいた同学年の者のことをたずねたい。
朝陽の要望に学務係の女性は資料を開き、そう答えたのだ。
けれど答えるその口調は妙に歯切れが悪い。
もしや、と朝陽は質問を重ねる。
「資料自体はふたりぶんあったり、しませんか?」
「……答えられません」
濁された返事と泳いだ視線が答えだった。
──おそらくタロに関わる記述が読めなくなっているのだろう。麟太郎さんの手紙がそうであったように。
その証拠に、女性は手元の資料を何度もめくり、目を凝らしている。
資料自体はあるのに、読み取れない状態になっていることで困惑しているのだろう。
朝陽も麟太郎の手紙を何度も読ませてもらったが、タロを表す文字が書かれた箇所は濁ったように読み取れなくて、諦めざるを得なかった覚えがある。
仮に資料を見せてもらったところで、書かれた内容を読み取ることはできないだろう。
これ以上ごねたところで情報は得られないと悟って、朝陽は学務を後にする。
退室する寸前、背後で「ねえ、この資料、濡れるところに置いたりした? 読み取れないんだけど……」と言う女性の困惑気味の声が聞こえた。
──できれば、タロのことをもっと知ってから行きたかったんだが。
純粋に出会う前のタロのことを知っておきたかった。
繋がりが強くなれば、断ち切るにも力や時間がかかるだろうから。未知の存在に対抗するために、少しでも知っていることを増やせれば、とも思ったのだ。
もちろん『琵琶湖のほとり』という情報があまりにも漠然としているというのもあった。
日本全国のどこか、と言われるよりはまだましだが、範囲が広いことに変わりはない。
なにせ、日本一の湖なのだ。そのほとりともなれば、ぐるりとまわるだけで二百キロにもなると知って、朝陽はちょっとへこたれそうになった。
──せめて運転免許があれば、レンタカーを借りるという手があったのだが。
残念ながら、朝陽はまだ免許を取得していなかった。
学業と神社管理人の仕事の合間に自動車学校へ通ってはいるものの、夏季休暇までに卒業できればいいだろう、とのんびりしていたのだ。
大学の試験期間が終わったら卒業検定を受ければ良いだろう、というくらいの予定を立てていた。
──こんなことになるとわかっていたら、追加料金を払って短期集中講座にしていたのに。
そんなことを考えたところで、今更ではあるけれど。
電車に揺られながら琵琶湖周辺にレンタサイクルが多数あることを調べて、すこしほっとする。
さすがに二百キロを歩いて回るのは、どれだけ時間がかかるかわからない。
──ひとまず、滋賀まで行って。二十四時間利用できるレンタサイクル屋の最寄り駅で降りて、そこからどっち周りに琵琶湖を回るか……ここで悩んだところで決まるわけもない、か。
宿も探さなければならないし、細かいことは着いてから考えよう、と朝陽は背もたれに体を預ける。
思考を止めた途端、どっと体が重たくなった。
疲れているつもりはなかったけれど、緊張の連続で思った以上に負担がかかっているらしい。
はあ、と音にならないため息をこぼした朝陽は電車の揺れに身を任せ、まぶたを閉じた。
眠ったわけではない。
ただ周囲の音が遠ざかり、意識が深く沈み込んでいく。
眠りと覚醒の狭間。見えるのは眼裏の暗がりだけ。
電車にゆらゆら揺られる朝陽が梅の香を感じたとき、声が聞こえた。
「縁を繋げ」
──白い梅の人?
低い声に聞き覚えがある。
そばにいるのかと目を開けようとするが、まぶたが重くて持ち上がらない。
タロのこと、さらったもののことを聞きたいのに、姿が見えない。
「名をつけろ」
要求はあまりに唐突だった。
人ではないものだから会話をする習慣がないのだろうか。
言葉が通じているのがせめてもの救い、と朝陽は思考を巡らせる。
──あなたの名を? だったら、かつて呼ばれていた名前を教えてくれれば良いのでは。
夢の中で見た幼いタロは、梅の木に向かって話しかけていた。
きっとあの村の人々がつけた呼び名があるのだろう。
タロが口にしていた音は朝陽の耳に届かなかったけれど、呼ばれていた梅の木である本人は聞いているはずだ。
ならばその名を呼ばせれば良い。
そう口に出して伝えたいところであったが、まぶた同様に体の自由も効かない。
嫌な感じはしないので、おそらく体は眠りにつき、意識だけが覚醒している状態なのだろうと朝陽は想像する。
明確に思い浮かべたことならば伝わるようだが、はっきりと形にならない思いは伝わらないのだろうか。
すると、返事があった。
「あの名はすでに滅びた」
どうやら口に出さなくとも伝わるらしい。
けれど彼の言葉は端的で、いまひとつ意味がつかめない。
──滅びたとは、どういう意味なのだろう。もう使えない名前なのだろうか。
「名を知る者がみな消え、名の意味が失われたのだ。もはやなんの力も持たぬ音の羅列よ」
──なるほど……?
わかったような、わからないような。
ともかく、朝陽が新しく名前を付けなければならないのだということだけは理解できた。
とはいえ、ネーミングセンスに自信はない。
──うう〜ん、ウメ、シロ、ハクバイ……。
「我が姿を言葉にしろと言っているのではない。呼称を決めろと言っているのだ」
──そうは言われても、急なものだから何も浮かばなくて。
必死で考えているのだが、ダメ出しをされてしまった。
白い人の姿を、その梅の木の立ち姿を思い浮かべるからいけないのかと思うけれど、名前をつけろと言われてしまったせいで、夢で見た梅の木の有り様ばかりが思い出されてしまう。
どうしたものかと頭を悩ませていたら、ふと、夢のなかで見上げた水面を思い出した。
──コテイ……コテイ様はどうでしょう?
朝陽が見た光景は、きっと彼のなかに今もある景色。
湖底となってしまった村で、本体である梅の木はもはや朽ちてしまったかもしれない。梅の木を覚えている人もいなくなってしまったのかもしれない。
それでも、その心は今もあの場所に佇んでいるのだろう。
そう思うと、朝陽のなかにうまく言葉にならない思いが湧いた。
あの場所と彼とを切り離してはいけない気がしたのだ。
「コテイ、湖底か。水底に沈む我にはふさわしいかもしれんな」
言葉だけをとらえれば自嘲しているかのよう。けれど、そうつぶやく声にはやわらかさがあった。
きっと嫌な気持ちは抱かれていない。
──あなたに新しい体……木? が必要なら、俺の荷物に入っているので。新しい名前とともに受け取ってもらえるだろうか。
そしてできれば夢から覚めても一緒に行動をして、タロの居場所を教えて欲しい。
そう口にするより先に、朝陽は意識が急浮上するのを感じた。
電車の揺れる音、かすかなきしみ音、衣擦れとさざめくような乗客の会話。途切れていた音が一気に戻ってくる。
あれほど重たかったまぶたがふっと持ち上がり、夢の狭間から追い出された。
急な明るさに思わず瞬く。
──コテイ様は。
そばにいるのでは、と顔をあげる。
隣の座席は空だった。目を閉じる前と変わらず、あいたまま。
座ったまま背のびをして背もたれ越しに周囲を見回すけれど、目をひくあの白は見つけられない。
──いない、か。
かすかな落胆とともに椅子に座り直す。
身じろいだ拍子、足元に置いたリュックに爪先がぶつかった。
「あ、もしかして」
思いついてリュックを開ける。
しなやかな枝が折れないよう、包んでいる布をそっと外す。
狭いなかに押し込められてはいるものの、梅の葉は青々としている。
むしろ電車に乗る前よりも生き生きしているように見えた。
そして、ほのかに香るさわやかな甘い香り。
まだ花が咲くどころか、つぼみのひとつもついていない夏の梅でありながら、香りをまとっている。
そのことが、見えないながらもそこに梅の木の彼が、コテイ様と名付けた彼が宿っている証だと思えて、朝陽はちいさく微笑んだ。




