5 渦巻く
浸水は寮の内部まで及んでいた。
玄関扉がなく、建物の中央に開口部があるだけなのだから、水が流れ込むのは仕方のないことではある。
ひとまず様子を探ろうと、筆文字で『よひら寮』と書かれた古びた看板の下をくぐる。
寮の中はおかしなほどに明るかった。
照明がついているわけではない。色褪せた天井に据え付けられた電燈は薄汚れ、虫の死骸を詰めたガラス管と化していた。
差し込む陽光もない寮の中を明るく照らしていたのは、溜まった水だ。
朝陽の腰の高さほどにまで溜まった水色にきらめく液体が、淡く発光している。そのせいで、うす暗いはずの寮内部は花びらを透かして空を見ているようにぼんやりと明るかった。
その色が染みているのか、ふるぼけた寮の内部はじんわりと水色がかって見える。
──美しいが、異様だな。
明らかに超常の事態だと感じながらも、朝陽はあくまで平常心を保とうと細く息を吐く。
不可解な光る水から意識をそらし、すぐそばの扉の取っ手を回すが、開かない。
やや錆びついたような引っかかりは感じるけれど、鍵がかかっている様子はないので、開かないのは水の重さのせいだろう。
玄関を入って一階には左右に二つずつ部屋がある。向かい合ったその扉のひとつひとつに手をかけるけれど、どれも開けられそうもない。
力を込めて引っ張ってみれば、取っ手の付け根がぎちぎちと鳴った。無理をすれば引きちぎってしまいそうで、朝陽はあきらめる。
「二階に行くか……」
できればタロの部屋を見たいのだが、部屋番号を知らない。扉にはネームプレートを入れるのであろう四角い枠がついているが、四つの部屋の枠はどれも空っぽだった。
──こんなことになるならばタロの部屋を聞いておけば良かった。
思ったところで、今更だ。
ひとまずできることからしようと、朝陽は二階を目指す。
玄関を入って四つの部屋を通りすぎたその奥に、階段があった。
行き止まりを左周りに上がっていく階段は、当然のように木でできている。
高さのある段差をのぼるため脚を持ち上げれば、濡れたズボンが張り付いて動きづらい。
それでも二段、三段と登って、水からあがった足が古びた階段の板を軋ませたとき、ふと目を落として気が付いた。
「もう染みてきたか」
半袖を着た朝陽の左腕に、じわりとにじむ水色がある。
腕を濡らす雫を右手で払ってみるけれど、うっすらと色づいた肌はそのまま。よくよく見れば、水色になった箇所の縁がじわじわと紫みを帯びてくる。
すると水色はやや薄らぐけれど、消えはしない。
「タロの髪はこれほど早く色が広がったようには思えなかったが。さすがにこれだけたっぷり浴びると、短時間でも関係ないのだろうな」
つぶやいて、朝陽は自分の体調に気持ちを向ける。
気分が悪いということはない。タロのようにめまいがするわけでもない。両手を握りしめれば、じゅうぶんな握力が出せる。
「よしっ」
まだやれる。
なんとかこの事態の中心を見つけて、解決の手がかりを探さねば。
そう意気込んだ矢先。
ぐらり、朝陽の体が傾ぐ。
一瞬、倒れかけたタロの姿が脳裏をよぎったが、違う。
「階段が……!」
足元の階段が形を崩して、ずぶずぶと朝陽の脚を飲み込んでいた。
板を踏み抜いたわけではない。水色が侵食してきた箇所から、硬いはずの板がやわらかな何かに変わっているのだ。
体を支えようと手すりをつかむけれど、手すりもまた頼りなく、くしゃりと歪む。
──落ちる!
溜まった水の中に落ちる衝撃に身構えて、息を止め目をつむったのだけれど。
とさっ。
身構えたわりに痛みはなく、なんなら息もできる。
不思議に思いながらまぶたを持ち上げた朝陽は、そのまま目を大きく見開いた。
一面に花が咲いている。
あたりを満たしていたはずの水は消え、それどころか寮の建物も周辺にあったはずのなにもかもが消えていた。
代わりのように、視界に広がるのは水色をした花の群れ。地に生えるはずのそれは、おかしなことに空まで覆いつくしているようだった。
いや、よく目を凝らして見れば、天を覆う花の中央に暗い穴が見える。
──あそこから落ちたのか? 怪我がなかったのは茂った花のおかげというか、なんというか。
手鞠のようにまとまって色づく水色を見てわかった。
「紫陽花……そうか、タロの髪を染めてたのは紫陽花だ。このあたりに溜まっていたあの水色は、紫陽花のあの色だ」
どうして気づかなかったのか。
黒髪にぽつぽつと現れていた色彩は、斑点ではなかったのだ。緑の合間に咲く紫陽花だったのだと、朝陽は気がついた。
思い出せそうでつかめなかった記憶の正体は、道ばたで見かけた紫陽花だったのだ。
「紫陽花には毒があると聞いたことがある……それでタロは具合が悪くなったのか」
いつだったか、幼い弟妹を連れて散歩をしていたときのこと。
紫陽花の葉に隠れているカエルを探してはしゃぐ二人を見ていた朝陽に、通りすがった人が教えてくれたのだ。
致死性の毒ではないけれど、具合が悪くなることがまれにあるらしいから気を付けて、と。
今、見えている花が朝陽の知る紫陽花と同じものかは疑わしい。
それでも、タロの具合が悪くなった原因はきっとこの花だろう。原因がわかったのなら、対処のしようはある。
朝陽はポケットから携帯電話を取り出して、清春にメッセージを打つ。『寮から離れていればよくなるはずだ』。
短い文を送って携帯電話をしまい、朝陽はあたりを見回した。
ぐるりを染める花は、見ているだけならばため息が出るほどに美しい。
けれどかき分けて進むとなれば、どう作用してくるかわからなかった。
淡く光る水とこの紫陽花とが同じものと決まったわけではない。ただ、溜まっていた水が消えたことと紫陽花が咲き乱れていることが、無関係だとは思えなかった。
具合が悪くなる可能性があるものに素肌で触れるのは避けるべきだろう。
「さて……そうなると、ここからどうしたものか」
紫陽花はすき間なく咲き乱れている。
通れる場所がないかと視線を巡らせる間にもゆるゆると葉を伸ばし、緑のがくが手毬のような愛らしい球体を形作って、水色に色づいていく。
今のところ、朝陽の足元だけは葉が出る様子もなく、花が開くこともない。暗い色をした石のようなものが地面に埋まっているせいか。
けれど間もなく枝が伸び、朝陽の立つ場所も花に呑まれるだろう。
──それまでにどうにかして、あの穴から上を目指さなければならないわけだが……。
見上げてみるけれど、都合よくロープが降りてくるわけもない。と思っていたのだけれど。
花に囲まれた天の中央に、にゅっと生えたのは人の腕。
そして声が降ってくる。
「ね~え~! ちょっと、そこに誰かいるんでしょう? そこの栓、抜いてくれなあい~?」
野太く、かつ激しい抑揚のついた声に聞き覚えはない。
朝陽の知る相手ではないとわかりつつも、落胆している暇はなかった。
「栓? この足元のは、栓なのか」
視線を下にやり、朝陽は生い茂る紫陽花をそっと踏んだ。足場にしていた石を両手でつかんで、引っ張る。
固い。しかし紫陽花を踏む靴がじわじわと水色に染まるのを見て、朝陽は思い切り力を込めた。
ぐ、と石がわずかに動く。それを機にずるずると石は抜けはじめ、やがてすぽりとあっけなく抜けた。
あとにはぽかりと開いた穴が。
途端に、あたりの紫陽花が溶けたようにして形を崩し、水色の液体と化して穴へと流れ込む。
とろり、ぞろぞろ、とろとろり。
ひとたび崩れ始めればその隣の花も崩れ、そしてその隣も、そのまた隣も連なるようにして形をなくしていく。
そして崩れた端から穴へと流れ込むのだ。
視界いっぱいの水色が速度を増して渦を巻き始めるのに、時間はかからなかった。
逃げる場所もない朝陽は、水の勢いに足を取られないよう必死に踏ん張る。けれど。
「くっ……流れが、きつい!」
増える一方の水に、いつまでも耐えられるわけがない。そのうえ濡れた箇所からじわじわと色が染みてくるせいだろう。朝陽の足と言わず体中に、にぶい痺れが広がりはじめる。
踏ん張るのも限界が近い、そのとき。
「ちょっと〜、流されるんじゃ無いわよお!」
再びの太い声とともに、降ってきたのはロープだった。
朝陽が痺れる手で必死にしがみつくと、ロープがぐっと持ち上げられる。
──助かるのか。
手の力は抜かないままで、朝陽は張り詰めていた気持ちをゆるめた。
ゆるゆると上がっていく視界のなか、咲き乱れる紫陽花が水色のきらめきに変わって流れていく。
流れたそばから穴に消えていくのだろう。だんだんと色を無くしていく景色は、紫陽花の色をいっそう美しく見せていた。
儚いゆえの美しさなのか。
ぼうっと見惚れていた朝陽はぐんっと力強く引き上げられ、視界が一気に切り替わる。
そこは瓦礫の山と化した寮の敷地。雨は降っていない。
目の前には見るからに上背のある、がっちりと分厚い体をした男が立っていた。ひらひらしたシャツの上からでもわかる、立派な筋肉だ。
「あら、若い子が釣れたわ」
野太い声には聞き覚えがあった。
紫陽花に囲まれた空間に降ってきた声だ。
見れば、男の手には太いロープが握られている。
「助けてくださり、ありがとうございます」
「礼儀正しい子は嫌いじゃ無いわ。でもね、お礼は良いわ。アタシにも打算があるもの」
「打算?」
首を傾げた朝陽に手のひらを向けて、男はおどけたように片目を閉じた。
「そ。アナタが抜いた杭が欲しいのよ」
「杭……これですか」
言われて自分の手元に目をやれば、確かに花の底で抜いた細長い石がある。ロープと一緒に握り込んでいたらしい。
「これは何なのですか。俺には石に見えるのですが」
男の手のひらにぽんと乗せる。
「元はただの石よ。ただ長いこと花の念に浸されていたから、きれいな呪に染まってると思ったのよね〜。アナタが溢れるタイミングで抜いてくれたから、とってもきれいだわあ!」
細長い足を空に透かして、男がはしゃいだ声をあげた。
「花の念……」
「この辺りには昔、紫陽花が咲き広がってたそうよ。だけど大学を建てるときの開発で刈られてしまって、咲けなかった花の執念よねえ。ずっと咲きたい、咲きたいって気持ちが渦巻いて、とうとう咲かせたのよ。きれいに咲きたいって気持ちは、人も花も変わりないってこと」
「わかるわあ」と言いながら、男は石をうっとりと見つめる。
話を聞いてから見てみれば、なるほど黒っぽいと思っていた石はどうやら深く濃い青色をしているらしい。
──あの水色を煮詰めたら、こんな色になるだろうか。
朝陽が眺めていると、男はどこからか取り出した袋に石をしまった。袋に施された複雑な刺繍には、何か意味があるのかもしれない。
「あ〜ん、でもこれだけの上物だと、助けた対価じゃちょっと釣り合わないわね〜。仕方ないわ。これ、あげる」
言いながら、やたらと優雅な仕草で差し出されたのはニ枚の名刺。一枚は『手芸屋 りんちゃん』とあり、店のものだろう住所とメールアドレスが書かれている。もう一枚には『呪芸屋 麟太郎』とだけ記されていた。
「これは……?」
「アタシのお店。困ったことがあったら相談に乗るわ。呪芸屋のほうはホントは内緒のお仕事なんだから、トクベツよ?」
しなを作って男、麟太郎はくるりと背を向ける。体に沿うシャツのひだがふわんと広がった。
「麟太郎さん!」
「りんちゃんとお呼びっ」
「り、りんちゃんさん」
「なあに?」
肩越しに振り返った凛太郎のたくましい背中に、朝陽は頭を下げる。
「ありがとうございました。あの、これでもうこの件は大丈夫なのでしょうか?」
「だいじょぶでしょ。そもそも、昔の人はこのあたりに悪い気がたまらないよう、穴をあけておいたってのに。そこに栓をして溜め込ませちゃうから、こんなことになるのよ。ほんの数年、待てば花の思いも流れたでしょうに。まったく、欲にかられた人間はかわいくないわ!」
ぷりぷりと怒る姿は頼もしさを感じた。
非日常がすっかり消えて、平穏な時間が帰ってくるようで。
「今後、お世話になることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「手芸屋さんのオネエさんとして待ってるわ〜」
ひらひらと手を振って、今度こそ麟太郎は去って行った。
その背を見送っていると、朝陽のポケットで携帯電話が振動する。
『なんか急にタロの髪色が元に戻ってきてるんだけど、どういうこと? あと朝陽どこにいんの?』
清春からのメッセージに自身の腕に目を向ければ、なるほど水色に染まっていた箇所は元の肌の色に戻りつつあった。
麟太郎の言葉を信じるならば、咲いて満足したということだろうか。
「さて、清春とタロに何と説明したものか……」
その前に、瓦解した寮についてどう釈明すべきなのか。
途方に暮れて見上げた空は、相変わらずの曇天が広がっている。
けれど遠い雲の切れ間から明るい陽射しが射しこむのが見えて、朝陽はようやく肩の力を抜いた。
~うつりぎな 完~
次の更新は今週の金曜日を予定しています。




