03-03.家族
「確かに、この子は私の産んだ子ではありません」
覚悟を決めた表情で、絢人と紗矢とザラを前にして、静かに桜は、だがしかしはっきりとそう言った。
太刀洗家の座敷、その低い和卓の上座に絢人、紗矢、ザラ。そして下座に桜がひとり座っている。縁側から差し込む日曜朝の春の陽射しは柔らかかったが、場の空気は緊張に張りつめていた。
桜の告白を聞いても絢人は何も言わなかった。肩に力を込めて、口を真一文字に結んだまま、膝の上で拳を握り締めているだけだ。その姿を横目で見た紗矢はなんと声をかけていいか分からず、ただ黙り込むしかなかった。
「よければ、事情を聞かせてもらえるか」
黙ったままの絢人と紗矢をチラリと見やり、桜の顔を見据えてザラが言った。ふたりに真実を問いただす勇気がないのなら、自分が代わって聞けばいい。彼女は最初からそのつもりで彼女たちに同行して来たのだから、ふたりがどんな反応であっても、自分が尻を叩いて前を向かせるだけだ。
それは、桜が大学の恩師だった太刀洗洋と結婚し、柚月を身ごもり、そして出産した直後の事だった。連絡もなく病室へやってきた洋の様子がおかしいので桜が問いただすと、彼は桜に「春香が亡くなった」と告げたのだ。
春香は大学で桜と同期で一番の親友だった女性である。卒業後に白石の実家に戻った桜と違って、春香は中心街のとある企業に就職したのだが、半年ほどで異動になったと桜に告げて沖之島を出て行って、それきりそのまま音信不通になってしまっていた。それなのになぜ洋が彼女の死を知っているのか。
事情を聞くと、大学の事務局に「不払いの客が太刀洗准教授を呼んでいる」とタクシー会社から連絡があり、桜の入院しているこの病院に呼び出されたという。洋を呼んだ客というのが春香で、彼が来た時にはまだ意識があり、抱いたままだった赤子を彼に預けて「先生、この子を、絢人を……」と言ったきり意識を失ったのだという。
春香の腹部は血で真っ赤に染まっており、それを見た洋は慌てて入院と手術の手続きを行い立ち会ったものの、不幸にも彼女はそのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
数年ぶりに聞いた親友の消息が死去の報。その事実は桜をひどく悲しませたが、一方で彼女が連れていた幼児が命を取り留めたと聞いて、桜は是非とも養子として引き取りたいと洋に懇願した。もちろん、かつての教え子の遺児を引き取ることに洋も否やはなかった。
翌日、近隣の某市で男性の変死体が発見されたというニュースが流れ、その日のうちに洋の元へ警察が事情を聞きに現れたことで、その男性が春香の恋人で絢人の父親だと判明する。当初は春香が男性殺害の容疑者として捜査されたが、男性の腹部に刺さっていた包丁からは男性の指紋しか検出されず、付いていた血痕は男性のものと春香のものだったと判明。
結局、男性が同棲中の春香と子供を殺そうとして誤って自らも刺した、ということで捜査は決着。被疑者容疑者ともに死亡で不起訴処分となったという。
男性と春香は籍を入れていなかったため、男性の両親は子供の引き取りを拒否。春香の両親も音信不通で子供が生まれたことさえ知らなかったため、引き取りに難色を示した。一方で太刀洗夫妻が引き取りを熱望したため、それで晴れて絢人はふたりの養子として迎え入れられることになったのだった。
それが、絢人1歳の春のことである。
「そんな事が……」
「あなたも高校生になったことだし、卒業までには話そうと思っていたの。お父さんが家にいる時に折を見て、と思っていたのだけど。
でも、まさかこんな形で話すことになるとは思わなかったわ」
桜はそう言って、少し寂しそうに笑った。
その顔が、絢人にはとても悲しい笑顔に見えた。
初めて知る自分の出生の秘密。だがそうと聞けば絢人には思い当たる節がある。ややあって、訥々と絢人が話し始めた。
「実を言うとさ、小さな頃から何度も同じ夢を見てるんだ。父さんみたいな男の人に『お前なんか要らない子だ』って言われる夢。時には殴られたり、包丁みたいなのが見えたり、それを母さんみたいな女の人が止めて喧嘩になるところで、いつもビックリして目を覚ますんだ」
静かに語る絢人の言葉に、全員が無言で聞き入るしかない。
「でも俺の知ってる父さんはそんな事一度だって言った事ないし、それどころかたまに帰ってくると抱きついたり一緒に風呂入ろうとしたり、ちょっとウザいくらいだったし、母さんとも仲良くて喧嘩なんて見たことなかったから、この人たちは夢の中の人たちとは違う、って思って。夢の中の人たちが本当の両親で、父さんとも母さんとも本当は血が繋がってないんじゃないかって、ずっと考えてたんだ……」
絢人がこの夢の話を誰かに話すのはこれが初めてだった。
今までずっと、確認するのが怖くて誰にも言えなかったのだ。
「絢人……そうだったの……」
初めて聞く話に桜も驚いている。彼女でさえ、息子が人知れず悩みを抱えて誰にも言えずに苦しんでいたことを知らなかったのだ。
「ねえ、母さん……本当の母さんって、どんな人だった?」
顔を上げて絢人が桜に問いかける。もうここまで来たら、聞けるだけの話を全部聞こうと、そう決めた顔だった。
「あなたの本当のお母さんはね、いつでもよく笑う人だったわ」
その真剣な眼差しを受け止めて、目を閉じた桜が思い出すように話し始める。その顔に笑みが浮かんでいるのは、懐かしい楽しい思い出を蘇らせているように見えた。
「大学に入って知り合ったんだけど、『春』と『桜』で同じ季節に生まれたのが分かって仲良くなってね。彼女とはいつでも一緒にいたわ。ゼミもお父さんの所に一緒に所属して、授業を受けるのも、遊びに行くのも、お昼を食べるのも、いつも一緒だった。もしかして女同士で付き合ってるんじゃないか、って噂されたくらい」
桜はそう言って、ふふ、と笑った。
本当に楽しそうな笑顔になっていた。
「私はあの頃はまだ魔術師で、だから実家からは『一般人とあまり仲良くするな』って言われてたんだけどね。でもあの子だけはそんなこと関係なしに一生友達でいたいと思ったし、実際に何回か秘密を打ち明けようと思ったくらい」
桜のその話で紗矢は美郷の顔を思い浮かべる。紗矢も彼女に本当のことを打ち明けようとしたことがあったが、結局なにも言い出せないまま今日まで来てしまっていた。自分が本当は魔術師だと言ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
そして絢人を魔術師にしたことで彼女から彼を奪ってしまった事実に思い当たって、紗矢の心も表情も重く沈んでいく。彼女になんと言って詫びればいいのか、なんと言えば許してもらえるのか、いくら考えても答えは見つかりそうになかった。
「その、魔術師だって言わなかったの?」
「ええ、結局言えなかったわ。あの頃の私は白石の次期当主に決まっていたから、自分勝手なことができなかったの」
「じゃあさ、父さんとはどうして結婚できたのさ?父さんは別に魔術師とかじゃないんだろ?」
「それは……」
桜は少しだけ言いよどむ。
「私のワガママを押し通させてもらったの。もう許婚も決まっていたのだけど、大学時代からずっと太刀洗先生……お父さんのことが好きで仕方なくて、我慢できなくなってお父様、その当時の白石当主に相談したの。
それで、黒森の家やシュヴァルツヴァルトの本家にまで話が行っちゃってねえ。結局、当人の意思を尊重すべきって事になって、それで本家からお許しをもらったわ」
「本家まで話が行ったの!?よく通ったわねそんな話!?」
本家が知っていると聞いて、紗矢はもちろんザラまで驚きを隠せない。だが逆に言えば次期当主の外婚はそれほどの大事でもあったということだ。
「妹の梓も当主の資格ありと認められたものですから。それがなければ無理な話だったと思います」
「あ、そ……そういうことね……」
「はい。その代わり、当主資格の剥奪はもちろん、霊核と霊痕に厳重な封印を施されて、魔術師としての私は死にました。知り得た魔術知識だけはどうにもなりませんが、それも[制約]で口止めされています」
つまり、桜は魔術の行使だけでなく知識を誰かに語ることも封じられているのだ。次期当主として白石の魔術工房を使ったこともある彼女に対する処置としては至極当然と言えた。
桜が改めて絢人に向き直る。
「絢人。私とお父さんはね、あなたのことを本当の息子だと思ってるの。血は繋がってないけれど、あなたは間違いなく私たちの子なのよ。少なくとも私もお父さんもそう信じてるわ。
それだけは、どうか忘れないでいて」
絢人の顔を見て、やや思い詰めた表情で、桜が訴える。彼女だって彼を騙していたわけではないのだ。少なくとも引き取ってから今日まで、一度だって愛情を注がない日はなかった。その愛だけは嘘ではないのだ。
「もちろん分かってるよ。今まで一度だって、愛されなかったなんて思ったことないし、むしろ愛されすぎて困るぐらいだったし。本当に、ここまで育ててもらって感謝してる。
俺の家はここで、俺の両親は父さんと母さんしかいないから。それははっきりさせときたい」
「ありがとう……」
桜はそれだけ言って、涙を一筋だけ零した。
絢人にはそれが、とても美しく愛おしく見えた。




