ハロウィンパニックⅤ
イヌ科の生き物の大きな口が、視界いっぱいに広がった。
牙をむき出しにした大きな口と、牙の間から漏れ出る唸り声に冷や汗が流れる。
「なに、この臭い……」
髪の毛にうっかり火がついちゃったときのような、嫌なにおいがした。
じりじりと何かが焼ける音もする。その音は、床から聞こえるようだった。
「狼さんの、した?」
恐る恐る視線を下げみたが、銀色の毛に包まれた前足が見えただけで、何もわからなかった。
狼さんはグゥと喉を鳴らした後、くるりと私に背を向ける。
同時に、重たい扉が閉まる音がした。
「ちょっと、朝陽! 何やってるんですか!? 佐江葉さんがまだ中にいるんですよ!?」
「エサバちゃんは襲われないみたいだから、大丈夫っちゃないかな」
「まあ、ワンちゃんのほうも、お嬢ちゃんじゃなくて、アタシたちの方を警戒しているみたいだしねえ」
三者三様の見解が聞こえてくる。
わたしはふさふさの大きな尻尾をしばらく見つめた後、部屋の中を観察した。
「……なんだろ、これ」
なにもないように見えた部屋の中に、大きな黒い毛布のようなものがあった。
触ってみると、やわらかくて、触り心地が良い。
広げてよく見れば、黒い毛布のところどころに銀色の毛がついているのが分かる。
「グゥ……」
床に大きな毛布を広げていると、狼がこちらを振り向く。
何か気に障ることでもしただろうか。わたしはそっと毛布から手を離した。
「これ、触ったらいけませんでしたか?」
返事はなかった。
狼はゆっくりとこちらの様子をうかがいながら、毛布の上に腰を下ろす。
すると、先ほどまでの何かが焼けるような音が止んだ。
「え、なに。焦げてたのって狼さんなんですか?」
毛布の上で寝そべる狼に声をかけたが、やはり、返事はない。
立ったまま狼の様子を観察していると、狼は顔を起こしてわたしの顔をじっと見つめた。
見つめ合うこと数分、わたしは寒さに耐えかねて、腕をさすった。
この部屋寒いなあ。
10月にしては暖かい日が続いたが、夜はやっぱり寒い。
「うーん、上着を持ってくるべきだったかも。って、うひゃ!?」
狼が急に起き上がり、鼻先でわたしの背中をぐいぐい押し始めた。
……どうやら毛布の上に乗れ、と言っているらしい。
「お、お邪魔します」
靴を脱いで毛布に上がる。すると、わたしをぐるっと囲むように狼が寝そべった。
大きな尻尾で、もふりと体を押され、毛布に腰をかけると──。
「ええっ!?」
しっぽがふんわりと、わたしの体を包み込んだ。
恐る恐る触ってみると、つやつやさらさらで、とっても触り心地がいい。
「ふうん。オオカミさんにとっては、エサバちゃんは子供なんだろうね。人間としての意識がない、獣の状態でも、子供として庇護しようとしてるっぽい」
扉についた小さな窓から、朝陽さんが顔を出す。
すると、狼さんは頭を持ち上げて、威嚇するような唸り声をあげた。
「はいはい。俺達は扉の前で待機しとるから、何かあったら叫んで」
そういって朝陽さんは窓を閉じた。
朝陽さんの姿が見えなくなっても、狼さんはしばらく扉を見つめて警戒をしている。
どのくらいそうしていただろうか。
やがて狼さんはフスンと鼻を鳴らして、ゆっくりと毛布の上に寝そべった。
「この感じなら……」
そろりと起き上がろうとしたら、狼さんも首を起こし「おとなしくしていなさい」と言わんばかりに、鼻先をぐいぐい押し付けてくる。
なんどか、このやりとりをして、わたしは部屋を出ることをあきらめた。
ぼんやりと狼さんにもたれかかっていると、銀の毛皮と狼さんの体温の温かさで──なんだか、眠くなってきた。
「狼の檻の中で寝るなんて、お嬢ちゃん、なかなか豪胆ね」
なんて声を聴いたのが最後だった気がする。
降りてくる眠気に流されるまま、わたしは意識を手放した。
◆◆◆
──新幹線をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。まもなく、13番乗り場に8時23分発……。
翌朝、わたしは駅の新幹線乗り場に来ていた。
起きたら大狼さんが全裸で横になっていたので、そのまま起こすのもなんだなと思い、コッソリと部屋を出たのだ。
そのあとすぐに、喫茶店にあるシャワーブースでシャワーを浴びた後、お店の制服に着替えた。
オカマさんは「ハロウィーンが終わったからみんな帰ったわよ」なんて言ってたけど、昨日あれだけの騒ぎがあったのだ。新幹線が運転を見合わせる可能性もあったが……。
「新幹線が動いてよかったです。朝陽、佐江葉さん、ご協力に感謝いたします。お陰様で職務を全うできました」
ドレス姿のオカマさんを連れて、阿部さんが微笑む。
目の下には大きな隈ができていたが、達成感に満ちた笑顔だった。
「はあ」
わたしの方はといえば。
体はさっぱりしたが、まだ眠気が取れず、頭がぼんやりとする。
「あ。阿部さん、よかったらこれどうぞ。差し上げます」
わたしは手に持っていた黒いネコミミを阿部さんへ渡した。
「相棒!? い、良いんですか?」
一緒に死線を潜り抜けたネコミミは、いつの間にか阿部さんの相棒へ昇格していたらしい。
徹夜明けのテンションって、ヤバいね。
「はい、どうぞ。……そういえば、阿部さんのご職業って?」
「一応、こういうものです」
よれよれのスーツの胸ポケットから、まさかの警察手帳が出てきた。
「え!? 阿部さん、警察の人!?」
「実家が古くから、怪異の専門家を生業としておりまして。公的機関との付き合いも長いんです。私は警察庁との連絡役、といったところでしょうか」
頭が回らないせいか、言っていることがよくわからない。
「ええっと、警察官って、何か試験とか受けないといけないんじゃなかったですっけ?」
「あ、そこはちゃんと正式な手順を踏んでいるので大丈夫です。試験も他の方と同様のものを受けました」
阿部さんの言葉を反芻していると、オカマさんが阿部さんの肩をつつく。
「そろそろ乗らないと乗り遅れるわよ」
「あなたも乗るんですよ!」
「乗るって約束したからには、ちゃんと乗るわよお。アタシは約束を守るオカマなの」
ふふん、とドヤ顔でいうクリス。
朝陽さんは特にリアクションをすることもなく、阿部さんを見やる。
「んで、オカマ淫魔は何をやらかしたと?」
朝陽さんの質問に、阿部さんの顔がこわばった。
どうやら聞かれたくないことのようだ。
「それは……申し訳ないのですが、機密事項ですので。お話できません」
「ホホホ、機密事項だなんて。おたくのパワハラ副総監が、アタシのおかげで新たな扉を開いちゃっただけでしょう?」
「き、きみつじこうが……私はいま、なにも、きかなかった……さ、さあ! 行きますよ!! きびきび歩いてください!!」
阿部さんは数秒間、白目をむいた後、クリスを引っ張りながら新幹線の中へ消えていった。
それから少しして、新幹線が発車する。
「朝陽さん」
「んー?」
「発端はかなりどうでもいいことだったみたいですね」
大変な思いをした割に、何とも言えない「機密事項」を聞いて、わたしは肩を落とした。
とても疲れたし。眠い。
「まあ、俺はそれなりに楽しめたから、あとはどうでもいいわ」
「……喫茶店に戻って、マスターにパンケーキを焼いてあげようと思うんですけど、朝陽さんもいかがですか?」
「ありがとう、エサバちゃん」
「アタシもいただくわ! そうと決まれば、喫茶店に戻りましょ!」
──今、聞こえるはずのない声が聞こえた気がする。
「あれ、おかしいな」
短い間だったけど、一緒にいたせいで幻聴が聞こえるようになったのかもしれない。
「あら、どうしたの?」
幻聴じゃなかったー!?
「えええええ!? なんで!? 新幹線に乗ったはずでは!?」
わたしの目の前には先ほど新幹線に乗ったはずの人物がいた。
「乗ったんだけどねえ。あの眼鏡イケメン、新幹線の席に座ったとたんに熟睡したから、そのまま通り過ぎて降りてきちゃった」
「降りてきちゃった──、じゃないですよ!? 約束はどうなったんですか!?」
「アタシ、乗るとは言ったけど、乗ってすぐに下りないとは言ってないわよ。抜け目ないオカマでしょ?」
うふ、と笑いながらオカマさんは、わたしにスマホを返してくれた。
「これも返し忘れていたし、ちょうどよかったわ。さ、パンケーキ、食べに行きましょ!」
「朝陽さん!」
「俺はどっちでもいいっちゃん。邪魔なら影が食べるだろうし」
「やだー! このイケメン相変わらず物騒!!」
嬉しそうにキャッキャと騒ぎながらはしゃぐクリスを連れて、わたし達は駅を後にした。
とんでもないハロウィンだったが、色んな意味でわたしにとって忘れられない一日となった。
終点でオカマさんがいないことに気付いたら、阿部さんはどうするのだろうか。
オカマはまだここにいます! と教えてあげたかったけど、わたしは阿部さんの連絡先を知らなかった。
……阿部さん、ファイト!
このお話はここでいったん終了です。
ハロウィンに完結! とはいきませんでしたが、どうかご容赦を。
少しでもお楽しみいただけましたら、うれしいです。




