27話目 蟄居閉門に処す②
そこは夢だというには酷く鮮明だった。
血に染まったかのような赤黒い空、墜ちる鳥、澱んだ空気、赤い水が流れる川。――そして、遠くに佇む見覚えのある離れ屋敷と庭だ。
(ここまでとはな……)
見藤は呆れたように、溜め息をついた。夢明晰なのか、ここが夢だと理解できている。手を見れば自分の意思で動かすことができる。
夢というのは精神状態に起因すると聞いた。いくら覚である沙織の力を借り、奥底に眠る忌々しい記憶を呼び起こそうとしても、ここまで迫真性を持つだろうか。見藤は首を傾げる。
見藤にとって悪夢とは、それほどまでに過去の出来事なのだろう。幼い頃の外傷体験とは、時の流れをもってしても十分に癒すことは敵わないようだ。
(夢の深淵とやらに辿り着ければ……)
夢の深淵、悪夢の辿り着く先。
斑鳩から聞いた。疑似的な夢遊病が進行した果てに起こる、人の隠された本性が浮き彫りとなる現象。
――だとすれば、己の本性とはどういったものなのか、そのとき自分はどうなるのか。
(どうせ、しがないおっさんの本性なんてのはたかが知れている)
夢の中だというのにふと、そんな事を考え、自嘲するように笑った。
歩みを進めて行く。あの離れ屋敷に向かうために――。
途中、妙なものを見た。それは人の姿をしており、男女ともに白地に黒い穴を三つ、目と口の位置に開けている面をしていた。表情は面によって隠されているにも関わらず、軽蔑的な視線を感じる。
見藤は思わず、それらから視線を逸らした。その視線には覚えがあったのだ。人の姿をしたナニかを視界に入れないよう、歩みを進めた。
見藤の息は浅く、荒くなっていく。夢の中だ、気のせいだ、と己に何度も言い聞かせても息は上がり続ける。
「はっ、……」
見藤は見慣れた離れ屋敷の前に辿り着く。あとは庭まで足を進める。そうすれば、夢の深淵へと辿り着く。直感的にそう感じていた。
意を決し、離れ屋敷の敷地へと足を踏み入れる。そうして、目指すはあの庭だ。
「胸糞、悪い……っ」
見藤は庭へ足を踏み入れる。すると、地面から水が沸き上がるように、ひとつ影が作られた。そして、そこに現れたのは、死を直前にしても穏やかな表情を浮かべる牛鬼の影のようなもの。
――この悪夢は記憶に起因したとして。もし、獏が意図的に見せている悪夢だとすれば、なんとも悪趣味。人の記憶をこれほどまでに弄ぶのかと、憤りを抱く他ない。
見藤は感情的になり、牛鬼の姿をした影を振り払おうと腕を伸ばす。
「くそっ……!!!」
すると、その影の中から――。見藤を丸ごと飲み込もうと、大口を開けた獏が姿を現したのであった。
◇
「えぇと、ちと待ってや……。これをこうして、」
「おじいちゃん、早く!!!」
「急かさんといて……!! 苦手やねん……こういう、きちっとした呪いは!!」
白沢を急かす沙織の声は切迫している。しかし、白沢は闊歩する速さを変えることはない。どうやら、順序があるようで一歩、また一歩と足を前後左右に動かしている。そして、最後の手順を終えると手に持っていた榊の葉を、酷くうなされている見藤に向かって扇状にばら撒いた。
「おっしゃ、いったで!!」
白沢の言葉と共に、ずるっ……とナニかが見藤から引きずり出される。それは、まさに獏。獏という動物の姿そのものだった、違うのはその巨体か。
夢から引きずり出された獏がその脚を地に着けると、紙に描かれていたはずの朱赤の匣が瞬時に実体を成した。この匣は見藤によって造られた、神獣封じの匣だ。
見覚えのある匣の姿に白沢は思わず「げっ」と声を漏らして、表情を引きつらせる。
だが、見藤は未だ目覚めていない。火車の姿をした猫宮が、体を咥えて匣の外へと連れ出した。
獏が引きずり出されたために、垣間見えたのは――、見藤の夢の深淵。血に染まったかのような赤黒い空。墜ちる鳥、淀んだ空気、赤黒い水が流れる川。
そして、白地に黒い穴が三つ、目と口の位置に開いた面を着けた人の姿が数人。それは現実世界であるはずのこちらを凝視している。
霧子はその光景を目にし、息を呑んだ。不気味だ、この一言に尽きる。
面を着けた人々の視線は酷く軽蔑的で、肉欲を孕んでいた。――すると、突然。それらは、こちら側へ無数の手を伸ばして来た。
悪夢と現実の境目。それを超えようとしているのか――。霧子は肩を震わせ、近くに佇んでいた沙織を庇うように抱き寄せた。
しかし、伸ばされた無数の手を防いだのは少年の背だった。彼の背後には、怯える小さな怪異達。立派な角を持った牛の頭と人の体をした影。そして、長身の女の姿があった。それは背にした者達を、身を呈して守ろうとしているように映る。
霧子は思わず声を漏らす。
「えっ……」
余りにおどろおどろしい光景だった。霧子は咄嗟に、沙織がその光景を見ないよう視界を塞いだのだった。
獏が朱赤の匣に囲われるのと同時に、その光景は消えてしまった。だが、衝撃的な光景は、霧子の脳裏に焼き付いて離れなかった。
白沢によって、獏と共に引きずり出された見藤の悪夢。夢の深淵の一端。それは、霧子の目にどう映ったのか――。霧子は眉を寄せ、唇を噛んでいる。
見藤の過去によって創り出された光景である。それが分かるのは霧子と、千を見通す眼を持つ白沢だけだろう。
霧子の戸惑う様子を見た白沢は、ちらりと彼女を一瞥した後、そっと口を開く。
「な? 言うたやろ、過去は清算せなあかん。そうせんと、おっさんはいつまで経っても過去に囚われる。……普通、人はここまでのもんは抱えてられへん」
「………………忠告、痛み入るわ」
言葉とは裏腹に霧子は眉を寄せ、白沢を睨みつけた。
霧子は猫宮から見藤をもらい受ける。見藤をその腕に抱き上げると、儀式のために隅へ寄せられていたソファーにその体を横たえた。霧子は見藤の頬に手を当ててやる。すると、沙織の言う通りなのだろう。見藤を害する者や邪なものをはねのけるのか――。
悪夢にうなされていたはずの見藤は瞼を震わせ、ゆっくりと目を覚ました。顔色は悪く、血の気が引いている。
すると、見藤は小さな声で霧子に尋ねる。
「……うまく、行ったか……?」
「えぇ」
霧子の言葉に見藤は安心し、短く息を吐いた。そして、ゆっくりと体を起こす。眠気を誤魔化すように頭を振り、額に手をあてる。視線を霧子の向こうへやると、そこには神獣封じの匣に囚われた――、獏の姿があった。
猫宮は獏を監視、威嚇するように対峙している。そして、白沢は同胞であるはずの獏が囚われているにも関わらず、ただ眺めるだけだった。
悪夢から引きずり出された獏は怒りを露にし、匣を壊そうと何度も頭を打ち付けている。しかし、匣は一切揺らぐことはなく、そびえ立つだけだ。
その様子を見た見藤はソファーから立ち上がると、ゆったりとした足取りで匣へと向かう。表情はいつになく険しく、静かな怒りをたたえている。
『匣から出せ!!』
喚き散らす獏の声は、金切り声を上げる女の声だ。その声に嫌悪感を抱いたのか、見藤はこれでもかという程に眉を寄せる。
そして、見藤が獏へ告げたのは――、封印の宣告だった。
「黙れ。金輪際そこから出られると思うな」
『ふざけるなっ!!!』
獏は掛けられた言葉に、さらに怒りを露にする。見藤が匣の正面に立つと、獏は襲い掛かろうと大きく体をもたげ、勢いよく突進した。だが、匣はびくともしない。
その巨体から繰り出された突進の衝撃は獏自身へと還元され、自身への傷害となった。ずるずると匣の垂面を下っていく獏を、見藤は静かに見下ろしている。その目は酷く冷たい。
体を地に着けた獏から発せられたのは、恨めしい声だった。
『人間風情が……!!』
「あぁ、その人間風情にお前は、今こうして見下ろされている」
『っ……!!! 人間が夢を見ることを望んだくせに、用がなくなれば私を捨てるのか!!』
「少なくとも、俺は頼んじゃいない」
『このっ、小童が!!!』
見藤の煽るような言葉に、獏は怒りのあまり大きく目を見開く。すると、彼の背後に立ち、事の顛末を見守る白沢が視界に入ったのだろう。獏は白沢に向かって吠えた。
『白澤!! 貴様、どうして私を助けない!? どうしてその人間の肩を持つ!?』
獏の言葉に白沢は、ばつが悪そうに頭を掻いた。そして、見藤の隣に並び立つ。その視線は見藤と同じく、獏を見下ろす形となる。
「いやぁ、堪忍な」
『同胞である私を裏切るのか!?』
「そんなつもりは、ないねんけどなぁ」
獏の言葉に白沢は眉を下げる。
白澤が同胞である獏を裏切る、というのは些か語弊がある。――獏は怒りに触れたのだ。それも、神獣でさえ封じてしまう呪いを知る者を。平時であれば、彼は怪異に心を砕く。だが、その信条さえも覆すほどの怒りに触れたのだ。
白沢は服の襟を少し下げ、自身の首元を獏に見せる。そこには、赤いしめ縄が刻印されている。見藤によって施された呪いの痕跡だ。
見知らぬ刻印に、獏は目を顰める。
『なんだ、それは。』
「こいつのせいで手ぇ貸されへん。残念や」
「ふはっ!」
なんともわざとらしい白沢の言葉に、見藤は滑稽と言わんばかりに思わず吹き出した。
もちろん、あのしめ縄の呪いに、そのような効力はない。あの時、見藤と交わした言葉に関する事にのみ、制約が働くのだ。しれっと嘘をつくことができるのは、さしずめ神の一端である神獣と言った所か。
「もうお喋りは終わったか?」
見藤はそう言うと、パン!と一つ手を叩いた。すると、獏の巨体を囲っていた朱赤の匣は、瞬く間に手のひらサイズの匣に姿を変えてしまった。いつまで経っても、そこから獏の声はしない。
匣は六面、細やかな模様と文字が羅列されており、正面となる面には赤いしめ縄が大きく描かれている。――――獏は、完全に封印されてしまったようだ。
容赦ない見藤の行動に、白沢は思わず身震いしたのであった。




