5話目 真夏の肝試し、廃旅館の開かずの間④
* * *
久保と東雲、煙谷は廃旅館の外に逃げ延びていた。だが、黒い煙が渦を巻きながら広がっていく光景。廃墟の窓から漏れる炎の赤が、夜の闇を不気味に照らし出す。
その光景を目の当たりにし、久保と東雲の顔には焦燥が浮かぶ。
「見藤さん……!」
久保の声は震え、縋るように二階を見上げた。見藤は未だ、廃旅館から脱していない。
「どないしよう……」
東雲もまた、煙に目を細め、恐怖と不安に唇を噛む。
二人を背にしながら、煙谷は二階の出火元と思しき部屋へ目を向けた。――煙谷の目に、常人には見えぬものが映っていた。
炎を操るようにして蠢く悪霊の影。無数の歪んだ顔が、火の手を広げようと蠢いている。ここが廃旅館と化した一因なのか、それは定かでない。
煙は濃くなる。時間は刻一刻と迫っていた。
「うーん、少し……まずい状況かな?」
煙谷の呑気な声が、場違いに響く。その軽さは、まるで火事など他人事であるかのようだ。
すると、東雲が煙を吸い込んでしまい、大きく咳き込んだ。煙谷は彼女レンタカーへ乗るように指示。体調が優れない東雲は目を閉じ、力なく震えていた。
残された久保は、燃え盛る廃旅館を見つめる。見藤を残した罪悪感に胸を締め付けられ、居ても立ってもいられない。彼は意を決し、口を開く。
「やっぱり、僕……!!」
「待ちなよ」
煙谷の鋭い声が、久保を制止した。だが、久保は煙谷を勢いよく見やり、狼狽えながらも訴える。
「で、でも……! 見藤さんが!」
「まぁ、いいから。落ち着きなよ」
久保は煙谷の言葉に苛立ちと混乱を覚え、拳を握りしめる。――だが、次の瞬間。久保は目を疑った。
煙谷が立ち込める煙を喰らったのだ。立ち昇っていた煙が、煙谷へ吸い込まれていく。喰らう、という表現がこれほど似合う光景はない。周囲の煙はみるみる薄れ、廃旅館の輪郭が再び見え始めた。
久保は呆然と立ち尽くす。あまりの異様さに、言葉も出ない。
「見藤には内緒だぞ」
煙谷はにやりと笑い、片目を瞑った。―― 祓い屋、煙谷は怪異であったのだ。
◇
煙谷は廃旅館へと再び足を踏み入れる。
まるで彼を拒むように、立ち込める黒煙が周囲で渦を巻く。しかし、彼が一歩進むごとに体内へ吸い込まれていった。 怪異である煙谷は、そうして煙を喰らっていく。
煙の範囲は徐々に狭まり、視界が明瞭になる。 これで周囲の煙害は抑えられただろう。しかし、煙谷はその顔を渋いものに変えた。
「それにしても、うぇ……まっずいなぁ、この煙。悪霊の糞みたいな味だ」
煙谷は顔をしかめ、ポケットからソフトパックの煙草を取り出す。火を着け、ふぅーっと紫煙を吐き出した。――怪異である彼にとって、人間の煙草は格別に美味なようだ。
咥えた煙草を口元で遊びながら、ゆったりとした足取りで火元へ向かう。
火元の部屋に辿り着くと、周囲の煙はほぼ消えていた。床に転がる見藤を確認し、煙谷は「やれやれ」と肩をすくめる。
炎は勢いを保ち、壁を舐めるように広がっている。煙谷は火元へ向き直り、両手をかざした。
すると――、火元は徐々に小さくなり、遂には消えてしまった。燃え切らず炭化したものが、がらりと崩れ落ちる。
煙谷は鎮火を確認すると、床に転がる見藤に声を掛ける。
「おーい、生きてる?」
しかし、意識を失った見藤は反応がない。煙谷は彼に近付き、うつ伏せの顔を覗き込む。煤で汚れた顔、浅い呼吸。
「軽い、一酸化炭素中毒だな」
首を捻りながら、煙谷は見藤の背中に手を当てる。 煙の怪異である彼は、空気中のガスをも操る。それは人間の呼吸によって交換された空気であっても例外ではない。
見藤は苦しそうに呻いたものの、煙谷がその手を離す頃には顔色が徐々に戻っていた。
「世話の焼ける奴だな、まったく」
煙谷は見藤を肩に担ぎ上げる。細身の体格に似合わぬ怪力で、がっしりした見藤を軽々と持ち上げる。
すると、煙谷はふと視線を感じ、足元を見やる。そこには、心配そうに見藤を見上げる、目玉の怪異の姿があった。
「こいつは大丈夫だ、あんたは?」
そう尋ねるが、目玉の怪異は答える口を持ち合わせていない。見藤が無事だと分かったのだろうか。目玉の怪異はずるずると床を這い、どこかへ消えてしまった。
煙谷は周囲を見渡す。未だ悪霊たちが蠢き、醜悪な気配が漂う。辟易しながらも、まずは見藤を連れ出すことを優先する。
咥えた煙草を揺らし、面倒事を予感して溜め息をついた。
(仕事は後回し、だな)
そう心の内に呟き、廃旅館を後にした。
◇
煙谷が廃旅館から出るや否や。慌てふためいた久保が出迎えた。そして、見藤を車内に転がそうとすれば、安堵した東雲が泣きじゃくり、煙谷を困らせた。
煙谷は久保と東雲を救急外来へ送り届ける。そこで、久保には念のため翌日、見藤の様子を見に行ってやって欲しいことを伝えた。
それから――。
煙谷はレンタカーを運転し、見藤の事務所前に帰り着く。後部座席には適当に転がされている――、未だ意識が戻らぬ見藤の姿があった。
見藤を担ぎながら、事務所の扉を開く。すると、真っ先に飛び出してきたのは猫宮だった。見藤の姿を目にするや否や、彼は驚いた顔をして見せた。
「見藤がここまでへばるとは珍しいな。お前がいるのも、なァ――煙谷」
「よ、久しいね」
猫宮と煙谷は親しげな挨拶を交わす。煙谷はその先の言葉を続ける。
「全く、こいつには困ったものだよ。大方、そこに憑いてる怪異でも助けようとしたんじゃない? 消滅しかけの怪異がうろついていたからな」
「相変わらず、辛辣だなァ」
そんな会話をしながら、事務所にある奥の扉を乱暴に開く。そこは見藤の生活スペースだった。部屋には最低限の生活用品が揃っているだけの簡素なもの。
「見藤の奴。無害な怪異なら、疑うことすらせずに手を貸すからなァ」
「ふぅん、相変わらずだね」
そう言うや否や。煙谷は意識の戻らない見藤を、容赦なくベッドに投げ捨てる。すると、猫宮はベッドに飛び乗り、見藤の呼吸を確認した。――深い呼吸が戻り、ひとまず安心だ。
猫宮が短い脚で、見藤の頬をぺしぺしと叩くが、やはり反応はない。
すると、煙谷は辟易とした表情で語る。
「ここまで世話をしてやったんだ。感謝して欲しいね」
「それなら、見藤に正体を明かせよ。煙谷」
そうすれば、怪異に心を砕く見藤だ。いがみ合う必要もないだろう、と猫宮は皮肉を交えて言い放つ。
「えぇ、やだよ。怪異に優しい人間、なんて気持ち悪い」
煙谷はそう言い残し、怪異らしく煙となって消えてしまった。
その場に残された猫宮は――。
「オイオイ……」
虚空に向かって、そう言葉を溢していた。
やれやれ、と猫宮は首を振る。――見藤は出会った当初からそうだった。人に無害な怪異であれば無条件に助けようとする。その理由は付き合いが長い猫宮でさえも知らなかった。
* * *
翌日。見藤が目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
しかし、鼻につく焦げた匂いは昨日の廃旅館の火事を思い出させる。意識がはっきりしないものの、久保と東雲は煙谷に任せたのだ。無事だろう、とぼんやり考えていた。
(俺はどうやって助かった……? 考えたくもないが、あいつの仕業か?)
自分を助け出したのは煙谷だろう、と思考する。燃え盛る炎からどうやって脱出したのか、疑問が尽きない。また、煙谷が自分を助けたという事実は、面倒この上ない。次に顔を突き合わせれば、皮肉の嵐が待っているだろう。
「ちっ……」
見藤は思わず舌打ちをする。そして「廃旅館の開かずの間」に関する調査報告も残っている。あの目玉の怪異は長くないだろう。考えることが山積みだ、とそこで思考を放棄する。
「……とりあえず、風呂」
面倒くさそうに呟き、ベッドから立ち上がる。まずはスーツに付着した砂埃と焦げた匂いをなんとかしたいと、重たい足取りで浴室へ向かった。
砂埃や煤で汚れたスーツをおもむろに脱ぎ捨てると、鍛え上げられた雄偉な体がになった。それも今は打撲痕が痛々しく、鬱血している。そして、床に打ち付けられた際にガラス片で切ったのか、擦り傷が複数。
シャワーの熱い湯に打たれる。染みる傷口、口内の鉄の味に眉を寄せた。倒れた際に口を切ったらしい。小さく溜め息をついて、歯を磨き、髭を剃った。前髪からポタポタと落ちる水滴が鬱陶しく思え、無造作に掻き上げる。
すると――、鏡の前を通りかかったとき、首の絞痕に気付く。
「こりゃ、最悪だ……。霧子さんに怒られる……」
それは霊障による痕跡だろう。しかし、見藤は違った思惑で悪態を付いた。
怪異である霧子は、見藤に自分以外の怪異や霊障の痕跡が憑くことを極端に嫌うのだ。彼女に、どう言い訳をしようかと思いつつ。結局は何も思い浮かばなかった。諦めて浴室から出て、水滴を拭き取る。
見藤は普段のスーツ姿とは打って変わって、比較的ラフな格好に着替える。そうして、事務所へ繋がる扉を開いた。
すると――――。
「………………」
「………………」
ソファーに腰かけて、こちらを睨む霧子と目があった。




