11.爺の昔話
使用人としてあるまじき事をしておりますが「フィクション」「雰囲気」「ふわっと」を念頭にお楽しみくださいませ
折角来てくれたのに、どうして素直に受け入れられないのだろう。ただ自分が臆病なだけで、アランは何も悪くないのにと、セレスは泣きはらした目を冷やしながらもう何度目かも分からない同じ考えをぐるぐると巡らせる。
アランとウィリアムが違うということも、毎朝律儀に送り続けられる贈り物や、返し忘れた耳飾りも嬉しいのに、素直に嬉しいと言えない愚かさも、どうすれば良いのか分からない。絆されてはいけない。もう面倒だ。何も考えたくない。
「失礼いたします」
コンコンとノックされた自室の扉の向こうから、穏やかな声がする。どうぞと入室の許可を与えれば、顔を覗かせるのは父親付の執事長だった。
「どうかしたの」
「お茶をお持ちいたしました」
普段ならばそれはティナの役目で、執事長のセバスチャンはセレスにお茶を持ってくる事は無い。何のつもりだと眉間に少し皺が寄るが、それを気にすることなく、カラカラとカートを押しながらセバスチャンはゆっくりと歩く。
「いらないわ」
「そうおっしゃらずに」
にこにこと微笑むが、手はするするとお茶を淹れ、セレスの座るテーブルへと置く。
「ゴールドスタイン様が何故いらしたか、理由はティナから聞いてらっしゃいませんか」
「何も聞いていないわ」
だって冷えたタオルを受け取ってすぐに追い出したのだから。
「先日のお出かけですぐお帰りになったので、いくつか見繕ってきてくださったのですよ」
トレーに乗せられた、可愛らしいケーキやチョコレート。いつか食べてみたいと思っていた甘味たち。とても一人で食べきれない程のそれは、仕事が休みだからとわざわざ一人で買いに行き、持ってきてくれたのだと言う。
「頼んでいないわ」
「ええ、お頼みになっていなくとも、これはゴールドスタイン様からの真心です」
頼んでいない、そんな嫌な台詞を吐くなんて、普段のセレスなら絶対にしないことだ。本当に、今の自分は嫌な女だとまた目頭が熱くなる。
「出過ぎた事ですが、老骨が思うにゴールドスタイン様は信用に足るお方かと」
「老骨なんて歳ではないでしょう」
「もう私も孫がいて良い歳ですよ。恐れながら、お嬢様は私にとって孫のように大切なのです」
ふわふわとした雲のようなクリームに、宝石のように真っ赤に輝く苺が乗せられたケーキを差し出しながら、セバスチャンは笑う。グスタフよりも年上で、セレスが産まれる前からダルトン家に仕えるこの男は、セレスにとっても大切な人間だった。
「子供でも孫でも、幸せになってほしいと願うものです。お嬢様は貴族ですから難しいかもしれませんが、それでもゴールドスタイン様は私から見て、お嬢様をお任せしても良いと思えるのです」
「…どうして、そう思うの」
「愛する方の為でなければ、あの店に男一人では入れません」
確かに女性客がメインターゲット層であるあの店は、男一人で入るのには勇気がいる。店内にいた男性客は皆女性のパートナーが一緒だった。
「遊びの相手に、もう何か月も毎日手書きのカードと薔薇を贈ることも致しません」
セバスチャンのグレーがかった黒い瞳がじっとセレスを見つめる。穏やかに、優しく、まだ幼い子供を見守るように。
「少し、この爺の昔話を聞いてくださいませんか」
「…長くなるなら座って頂戴」
普段なら固辞される誘いを、セバスチャンは「では失礼して」と一言添えてからセレスの向かいに座る。その行動に目を丸くしている隙に、セバスチャンは自分の分の紅茶を注いで一口飲んだ。
「お嬢様が幼い頃、何故セバスチャンはお嫁さんがいないのと聞かれたこと、覚えていらっしゃいますか」
「ええ、覚えているわ」
ウィリアムとの婚約が決まったばかりの頃、そういえばお父様よりも年上なのにどうしてお嫁さんがいないのかと不思議に思ったのだ。子供特有の無邪気で残酷な質問に、当時のセバスチャンは困ったように笑うだけだった。
「お嬢様にお嫁さんはいないのかと聞かれるほんの数日前に、婚約破棄していたのです」
少し悲しそうな、遥か昔の思い出を懐かしむような顔。ずっと昔にした質問なのに、なんて事をきいてしまったのだとセレスは居心地が悪くなる。
「相手の女性の心変わりが原因でした。あの日、一日お暇をいただいたので、彼女の所へ顔を出したのです。目の前に広がるのは、見知らぬ男と絡み合う彼女の姿でした」
セレスが小さく息を飲む。ウィリアムとマリアはまだ服を着ていたが、セバスチャンは現場をしっかりと見てしまっていたのだ。
「頭が真っ白になりました。気が付くと、裸で逃げる彼女と、血まみれで気を失った男が転がる部屋に私だけが立っていました」
「…意外と、やるのね」
「若い頃はそれはもう」
ほっほっほと可笑しな笑い方で場を和ませようとするが、残念ながらそれは叶わない。二人でほぼ同時に紅茶を啜り、一瞬の静寂が訪れた。
「それから何年も、私は女性を信じる事が出来ませんでした。今のお嬢様と似ておりますな」
「そう、ね」
「女性を信じられないまま、何年、何十年も経って…私はこうして独り身のまま歳を取りすぎました」
一つ大きく息を吸い込んで、セバスチャンはじっとセレスを見つめなおす。
「旦那様にもまだお伝えしていない事を、お嬢様にお話いたします。…少しの間、爺と二人だけの秘密にしてくださいますか」
「秘密…何かしら」
一体何を言われるのだろうと、セレスは姿勢を正す。じっとセバスチャンを見つめ返すと、真面目な顔だったセバスチャンは悪戯っぽく微笑んだ。
「何十年も一人で良いと拒絶し続けましたが、それでも私を愛してくれる人がいたのですよ」
「え…?」
「愛されるというのは、凍り付いた心を優しく溶かしてくれるものです。案外心を開いてみれば、居心地が良いものです」
「ちょっと、待ってちょうだい。セバスチャンは結婚するの?」
にんまりと微笑みながら、セバスチャンは呑気に紅茶を啜る。混乱しているセレスの表情を見ながら、穏やかに微笑むのだ。
「誰、誰が相手なの!」
「花屋の女将ですよ。彼女はもう二十年も一途に想っていてくれまして」
「花屋の…ローリーおば様?!」
「そうです、ローリーです。巷ではオールドミスと言われておりましたが、それも近く返上ですな」
セレスもよく話す花屋の初老の女性。優しい笑顔で、時折屋敷に飾る花を持ってきてくれるのだ。まさかセバスチャンと添い遂げることになるとは。
「セバスチャンは、幸せ?」
「勿論。随分と待たせてしまいましたが、私は幸せです」
「そう、そうなのね」
「では、爺の昔話はこれにて。同席させていただくなどと大それたことをいたしました」
さっと椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。本来なら使用人が屋敷の主とその家族と席を共にするなどあり得ない。だが、セレスはたまにはこういうのも良いかもしれないと微笑んだ。
「秘密は守るわ」
「ええ、お願いいたします。…ティナ、お前もだ」
扉の向こうに厳しく声をかけると、少しの間を開けて気まずそうな顔のティナが顔を覗かせる。きっと全部聞いていたのだろう。
「申し訳ございません…」
「どうせすぐに報告するから構わんが、立ち聞きするのならもっとしっかり気配を消さんか」
「はい、精進いたします」
使用人二人のやり取りに、思わず吹き出すセレスに、ティナが安堵したような顔をした。
「ティナ、お願いがあるのだけれど」
「はいお嬢様、なんなりと」
「さっきは追い出してごめんなさい。お詫びとして一緒にケーキを食べてほしいの。こんなに沢山一人じゃ食べられないわ」
「そんな、私は使用人です!」
慌てふためくティナに、セバスチャンが無理矢理背中を押して椅子に座らせる。
「お嬢様のお望みだ。今回だけ」
「…では、お言葉に甘えて」
納得していないティナに、セバスチャンが紅茶を差し出して部屋を出ていく。主と侍女の秘密のお茶会は、少しの涙声と笑い声で彩られた。




