第36話 肉を焼いたらニオイに誘われてくる名もなき少女
気が付いたときには、森の奥深くでボロ雑巾のように捨てられていた。
自分が何故こんな所にいるのか、何故こんなにも体が傷だらけになってやがるのか。
それ以前の記憶はないが、全身に痛々しく刻まれた青アザが「思い出すな」と警告している気がして、深く考えるのをやめた。
『…………おなか、へった……………』
どちらに行けばいいのか。
どちらに行くべきなのか。
そんな面倒な考えはただならぬ空腹によって掻き消され、ひたすらに足が前へ前へと進んだ。
日の光が当たらず、足場も悪い。
溢れてしまいそうな程に目玉をかっ開いて、必死に食べられるものを探した。
この際、ドブネズミだろうが何でもいい。
死にたくない。
死にたくない。
そんな思いでフラフラになりながら進むと、突如、何やら香ばしいニオイが体を突き抜けた。
『…………んぁ? 何だお嬢ちゃん、どっから来た? 迷子か?』
コケむした木の間を潜り抜けた後、視界に飛び込んできたのは、パチパチと燃え上がる炎の上で旨そうに焼けている肉のカタマリ。
ドッカリと座ってそれを豪快に頬張るのは、赤茶色の髪をツンツンと短く切り揃えた、青い目の筋肉質な男性。
焦げ茶色の地味な服装……狩人だろう。
低く能天気そうな声と共に、右眼に刀傷のような物がついた強面が、ボンヤリとこちらを向いた。
刹那、自分の足は強く地面を蹴り、その男まで一気に距離を詰めていた。
手入れもされずに限界まで伸びた右手の爪を、喉元めがけて振り下ろす。
だが……男はまるで羽虫でも捕まえるかのように、いとも簡単にその手首を掴んだ。
そして大きな手を繊細に扱い、ギリギリ抜け出せないような強さで握りしめてくる。
『…………はなしやがれ、ジジイ』
『おいおい……オレァ確かにカミさんも、お前さんと同じくらいの子供もいる立派な大黒柱だが……まだ32だぜ? 確かに年齢にしちゃ老け顔だとはよく言われるが、ジジイ呼ばわりたぁ傷つくねぇ』
『その肉よこせ、ジジイ』
『腹減って聴覚が働いてねぇのか? それとも根っからのサディストなのか? ったく、しゃあねえなぁ…………ちょいと待ってろ』
今しがた自分の命を狙おうとした少女の手首を優しく握りながら、男はもう片方の手で胸元からナイフを取り出した。
そして、焚き火の上でコンガリと焼けている何らかの野生動物の肉を、器用に切り落としてみせた。
『ほれ、食いなお嬢さん。塩コショウは振ってるからよ』
『…………いいの?』
この男を殺して奪い取るつもりだったので、相手の行動にやや面食らう。
『捌いてみたはいいが、この量を一人で食い切るのはさすがの屈強なオレでも骨が折れるんでね。その小せぇ体じゃロクな戦力にならんだろうが…………生ゴミにならねえよう、お前さんも協力してくれや』
目の前に差し出された巨大な骨付き肉。
礼も言わず、奪うようにそれを受け取って貪り食う姿を見て、男は深く溜め息をついた。
『やれやれ……女の子との相席は大歓迎だが、これじゃあまるでメス野良犬に餌付けしてるみてぇだな。まあいいさ、ちょうど一人の食事にも飽きてきた所だからよ』
男はタバコを取り出して火をつけようとしたが、こちらをチラリと見ると、名残惜しそうにそれをポケットへと押し込んだ。
『はぐはぐ……ジジイはもぐもぐ……なんでこんな所にいやがるんだむしゃむしゃ……?』
『食いながらお喋りすんな。食べカスがオレの顔面を汚くデコレーションしちまってんだろうが。あとジジイも禁止だ。オレはジレゴ。気軽にジレゴ様って呼びな。それがイヤなら、せめてオッチャンにしてくれ。ジジイだけは勘弁だ』
『パクパク……ジジイはガツガツ……なんでこんな所にいやがるんだガブガブ……?』
『食う効果音が変わっただけじゃねえか!! 依然として食べカスカーニバル開催中だし!!』
その男はワケの分からないことを叫びながらボリボリと頭を掻きむしる。
『おいお嬢ちゃん……オッチャンの額を見てみろ。青筋さんがいっぱい立ってんだろ? これがどういう意味か分かるか?』
『…………縁起がいい?』
『人の青筋を茶柱みてえに言うな!! おいおい、こちとら素性も知らねえお前さんにこんなにデッケェ肉をご馳走したんだ。少しくらい真面目にお話しちゃあくれねぇかい?』
男はこちらの顔をジッと覗き込んできた。
『あーっと……まずお嬢ちゃんの名前は?』
『名前…………?』
『あんだ、わかんねえのか? じゃあ年齢は? 見たところ7、8歳ってとこかね?』
『……年齢…………』
『おいおい、これも難問だったかい? そんじゃあ、お前さんは一体どこから来た? これなら答えられるだろ?』
『……森の中』
『んぁ? なーに寝ぼけたこと言ってやがる。ここだって立派な森の中じゃねえか』
『うん。だから…………森の中』
それを聞いた男の顔には一瞬だけ驚きの色が宿ったが、やがて全てを察したような表情を浮かべ、そっと頭を撫でてきた。
綺麗な青い目がゆっくりと細まる。
何もかもを包み込むような、優しい笑顔だった。
『よっしゃ、特別サービスだ。オッチャンがお前さんに名前をつけてやる』
『名前…………』
『そうさな……クムン。お前さんの名前は、クムン=ハレープだ! どうだい?』
『クムン……ハレープ…………クムン…………ハレープ…………』
声に出して繰り返す度に、じわじわと心が温かくなっていくのが分かった。
そして、無意識のうちに涙が流れ出ていた。
『ぬおおっ!? 泣くほど気に入らなかったのかよ!? わかったわかった、すぐに別の考えっから待ってろ!!』
『ちがう……』
慌てふためく男を見ていると、自然と笑顔が溢れてきた。
『うれしい……からっ…………』
『…………そうかい、そいつぁ何よりだ。改めて、これから宜しく頼むぜ……クムン』
先ほど手首を掴んできた大きな手で、今度はガッチリと握手を交わしてきた。
『お前さんには教えなきゃならねぇことが山程あるが……まず基礎編として、目上の奴には敬語を使わなきゃな』
『けーご…………?』
『おうよ。オレぁ別に気にしねえんだが……このご時世だ、そういうのにガタガタとウルセエ奴もいるからよ。覚えといて損はねえだろ? んじゃ早速……言葉の最後に「です」ってつけてみな』
男はカバンから水筒を取り出し、ゴクゴクと水を飲み始めた。
『です…………』
慣れない言葉に謎の緊張が襲いかかる。
そして動揺しながらも、男の顔をジッと見つめ、震える口をゆっくりと開いた。
『お肉のおかわり……よこしやがれ…………です』
『ぶはっ!!』
男は飲んでいた水筒の水を全て吐き出した。
『ぶははははははは!! こいつぁケッサクだ!! 腹痛ぇ腹痛ぇ…………いでででででで!!!』
満面の笑みを浮かべて持ち上がった頬を全力でつねる。
『なんでそんなに笑うの…………ムカつく…………!!』
『いてて…………いやすまねえすまねえ……慣れねえこたぁさせるモンじゃねえと思ってな。でもいいんじゃねえのか………クムンらしくてよ』
『……クムン、らしい……』
『次は一人称でも決めるか。さっきから全然使ってねえし。そうさな……お前さん気が強そうだから「わたし」とかは似合わねえし、かと言って「オレ」もおかしいよな……』
男はしばらく考えると、ポンと手を打った。
『そうだ!「ウチ」とかどうだ?』
『うち……?』
『ああ、お前さんによく似合ってると思うんだが? 試しにさっきの敬語と合わせて自己紹介してみな』
ニコニコと楽しそうに見つめてくる男。
その顔を見て…………ウチは、言った。
『ウチの名前は、クムン=ハレープ……です。よろしくおねがいしやがれ……………です』
男はすぐさま明後日の方向を向いた。体がプルプルと微振動している。
『うん、いいんじゃないっひゅかね、かんぺきかんふぇふぃ、かん……………ぷっ』
我慢できなくなった男は、静かに空気を吐き出した。
『がーーーはっはっはっはっはっははははは!! 悪ぃ、やっぱ耐えらんねえわがははははははいででででででで!!! こら、つねるなってば!! てか何でアゴ!? さっきみたいに頬でいいだろ!!』
笑い転げる男のアゴをつねると、チクチクとしたヒゲの感触が伝わってくる。
ウチは前髪を上げ、男にシワシワの額を見せた。
『ウチのおでこにも……ジジイと同じのできてる』
『んぁ? だから俺はジジイじゃね…………ぶはっ!! がははははははっ!! ホントだな! 綺麗な青筋が立ってやがらぁ! でも良かったじゃねえか…………立ったら縁起がいいんだろ?』
『むぅ……』
『ほれ、お望み通り肉のおかわりと……あと水もやるよ。お前さんにはまだまだ教えなきゃならんことが山ほどあるからな! たーんと食って飲んで、体力つけろ! ジレゴ様のマンツーマン超集中講習は厳しいぜ?』
『わかった。よろしく、ジジイ』
そう言いながら手を伸ばしたが、肉と水筒のフタがすっと引っ込められる。
『ジレゴ様かオッチャンか…………どっちかで呼ばないとあげねえぞ? 基礎編の最終テストだ。さっき教えた一人称と敬語も交えてお願いしてみろ』
何だか恥ずかしくなったウチは、目を逸らしながら手皿を作って素早く前に出した。
『ウ…………ウチにお肉とお水……よこしやがれ、です…………ジレゴ』
『…………ん、まぁオマケで合格にしといてやる』
そっとウチに肉を握らせたジレゴの笑顔は、とっても優しかった。
その後、ウチとジレゴは色々な話をしながら、ゆっくりと肉を食べ続けた。
これが、ウチの最初の記憶。
『クムン=ハレープ』が持つ、最も幸せな記憶。




