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草原演義  作者: 秋田大介
巻二
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第二 五回 ③

ハクヒ敢えて(いつわ)り称して南に義君を逃し

インジャ僅かに兵を併せて東に山塞へ赴く

 ハクヒは(ウルドゥ)を持った右手を高々(ホライタラ)と挙げて宣した。


「我らは(ホイン)へ!」


 さらにおおいに金鼓を鳴らさせる。それを遠く(ホル)に聞いて、インジャとセイネンは(ヌル)を見合わせる。


「あれは、ハクヒか?」


「なぜそんなことを……。次兄や三将は静か(ヌタ)(トイ)を出たというのに」


 そのハクヒは、突撃の(カラ)を下すと大声で叫んで、


「フドウ氏のインジャはここにいるぞ! ウリャンハタの雑兵め、(アミン)が惜しくなければかかってこい!」


 言うが早いか、馬腹を蹴って敵中へ突っ込んでいく。続くはフドウの千騎(ミンガン)。剣を掲げてさらに連呼して、


「インジャはここにあるぞ! 武勲が欲しければ、この首を奪ってみよ!」


 ウリャンハタ軍は、フドウの(トグ)を掲げて飛び出してきた大将がインジャと名乗るのを聞いて、みなここが武功の立てどころとて躍起になってあとを追った。おかげで他方の囲み(ボソヂュ)が薄くなる。ナオルや三将と戦っていた将兵も次々と馬首を転じる。


 インジャは、ハクヒが北へ向けて撃って出たと聞くと愕然として、


「いかん、救いに行かねば!」


 叫んですぐに駆け出そうとしたが、セイネンがそれを抑えて、


「ハクヒ殿は身代わりになるおつもりです。その(オロ)を無にしてはいけません」


 これをきっと睨みつけると、


「愚かな! ハクヒがいなければ、私は生まれてさえいなかったかもしれん。いつもハクヒが傍ら(デルゲ)にあって陰に陽に私を支えてきたのだ。身代わりだと? そんなことは許さん!」


 しかしセイネンは(くつわ)を抑えたまま首を振る。そして言うには、


「義兄が命を粗末にすれば、ハクヒ殿はどんなに悲しむことか。何のためにハクヒ殿が命を(バイ)にするのかお察しください。すべては義兄のため、大義のためです」


「私の命などそれほどのものではない! 他人の命を(ハルハ)にしてまで生き長らえたくはない」


 いつしか滂沱(ぼうだ)と落涙している。

 セイネンも(ニドゥ)の端を赤くしながら、なおも言うには、


「以前、ハクヒ殿からフドウ滅亡のときの話を聞いたことがあります。ムウチ様を護ってタムヤへ向かう途上、テクズスに追いつかれて進退窮まったところ、オラジュイ様、ツウティ様という二人の将が自らの命を盾にし、後事をハクヒ殿に託して突撃していったそうです」


 その目からもいよいよ涙が(こぼ)れて、


「もちろん衆寡敵せず戦死なされましたが、そのおかげでムウチ様は難を逃れたのです。そもそもハクヒ殿とて、ともに戦いたかったでしょう。しかし氏族(オノル)のために涙を呑んで進まれたのです。今、ハクヒ殿はまさにオラジュイ様やツウティ様の役を果たそうとしています。義兄もハクヒ殿の意を汲んで、ひとまず逃げることに専念されますよう」


 インジャはこれを聞くと、がっくりと(ムル)を落として、


「私は何と罪深い。生まれる前にすでに二人の将を殺していたか……」


 悄然として(アクタ)(また)がり、隷民(ハラン)軍を率いて発つ。(ブルガ)の数は少なく、容易(アマルハン)に切り開くことができた。タンヤンは顔中を涙で濡らしながら叫んだ。


「ハクヒ殿、なぜ私も連れていってくれなんだ! 誘われれば私にもフドウの(ツォサン)が流れている、何で断ろうか」


 セイネンが慰めて、


「言うな、タンヤン。お前以上に義兄が辛かろう。今やフドウの勇将はお前だけになってしまった。決して命を粗末にするでないぞ」


 それを聞きつけたインジャが、(ダウン)を荒らげて言った。


「ハクヒはきっと帰ってくる! きっと、きっとだ」


 一行は駆け続けて翌日、ツァイバルに着いた。先着したナオルらが出迎える。一同は再会を喜んだが、ハクヒのことを案じないものはなかった。


 点呼すれば全軍の四割近くを失っていた。ジュゾウに命じてタロトに走らせると、(デム)()いて人馬を休ませた。インジャも泥のように眠った。


 夕刻(ヂルダ)になって、フドウの兵士が幾人か辿り着いた。それを聞いたインジャは、跳ね起きると尋ねて言った。


「ハクヒは、ハクヒはどうした」


 すると面を伏せて言うには、


「インジャ様の名を名乗りつつ敵陣に突入し、奮戦しましたが衆寡敵せず、ついに討ち取られてしまいました。見事な最期でした」


 インジャはあっと声を挙げて気を失ってしまった。あわてて介抱するとやっと(アミ)を吹き返したが、がっくりと膝を突き、拳で(コセル)を撃ちながら言うには、


「兵を挙げてから今まで一人の将も失わなかったというのに、私が至らないばかりについに大事な将を死なせてしまった」


 そして哭泣する。居並ぶものもみな涙を流して宿将の死を悼んだ。




 何日かすると、四方に放った斥候(カラウルスン)が戻ってウリャンハタ軍の動向を伝えた。


「ミクケル・カンは、ナオル様の(アカ)であるウルゲンを立ててジョンシ氏族長(ノヤン)とし、兵馬を与えてタムヤに退きました」


 ウルゲンの名を聞いて驚かぬものはなかった。タンヤンなどは、


「あのとき殺しておけばよかったんだ。まったくインジャ様はお人好しだ!」


 セイネンが(たしな)めて、


「そういうことを言うものではない。ところで次兄、ウルゲンとはいかなる男でしょうか」


 尋ねれば、ナオルは憤怒(アウルラアス)に顔を(あか)くしながら震える声で、


「狭量の小人、千里の夢を見ながら一寸先も見えぬ愚者(アルビン)


「ミクケルとてそれは十分承知しているはず。なれば輔翼に良将を配したに違いありません。ジョルチ部を制するために名を借りたのでしょう」


「セイネンの言うとおりだ。義兄、我々としてはウリャンハタが退いたのを幸いとして、一刻も早くタロトと兵を併せるべきです」


 (ようや)く自制したナオルの進言に頷くと、


「明朝、ツァイバルを発つ。ジュゾウ、再びマタージへの使いを(たの)む」

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