第一九六回 ③
ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い
サノウ亟やかに両翼を趨して慕兼成を陥る
ハレルヤは、迫り来る敵軍を平然と見つめながら呟いた。
「まったく超世傑たちはよくやった。華人どもは陥穽に落ちたことに気づいてすらない」
おもむろに大刀を掲げると、命じて言うには、
「斉射」
たちまち無数の矢が放たれて、突っこんできた梁軍は瞬時に数百騎を失う。これぞ本来あるべき「驟雨のごとき」草原の斉射。梁兵は驚倒して、どっと浮足立つ。
「突撃」
すかさず命じれば、第五翼の前衛が整然と動きだす。自身も大刀を引っ提げて疾駆に移る。左右を固めるのは、活寸鉄メサタゲと白日鹿ミアルン。喊声とともに突き入って存分に暴れ回る。
すっかり足を止められた梁軍の戦列は千々に乱れる。趙粲は怒り心頭に発して、
「みすぼらしい蛮族どもが! 敵の兵装は脆弱ぞ! 怯むな、押し返せ!」
おおいに罵り散らしたが、戦況は一向に好転しない。個々の兵士は敢闘すれども、刻一刻と劣勢に追いこまれていく。これにはもちろんそうなるべき道理がある。
そもそも草原の戦では、万騎なら万騎が、千騎なら千騎が一体となって戦うことを良しとする。その最小の編制が「十騎」である。十人長の責務は、これを巧みに連携せしめることに尽きる。まず麾下の九騎をみっつに分け、そのひと組ごとに一人の敵人を襲わせる。つまり常に三対一の形を作らんとするのである。
一部の人知を超えた猛将(注1)を除けば、決して単騎では戦わない。たとえ僚友を欠いても、十人長の指揮に従って隊伍を組み直し、十人長を失えば直属の百人長の下に駆けて瞬く間に再編される。
かつて趙粲が、草原の民は「形名分数を知らぬ」と嘲ったことがあったが(注2)、実は彼らほどこれに精通している民族はない。むしろこの五十年に及ばんとする乱世を通じて、用兵の術は長足の進歩を遂げていた。
ゆえに彼我ともに草原の民であれば、一個が数の優位を得んとしても、一個が必ずそうはさせじと手を打つので、戦況は目まぐるしく変化する。ところが梁軍には、こうした戦法について発想そのものがない。よって個人でいかに奮戦しようと、三騎に囲まれて翻弄されるうちにいつか討ちとられるほかない。
超粲の困惑は、次第に焦燥に変わる。梁騎の長所たる突貫の威力は、すでに失われて久しい。望まぬ乱戦に身を投じてしまった今、迂闊に退くこともままならぬ。いたずらに怒号を挙げて眼前の敵に相対するばかり。
あわや潰乱という危機を救ったのは、あとを追ってきた聞隆運。わっと乱戦の中に躍りこめば、梁軍は何とか堪える。
しかし聞隆運も拭いがたい違和感を覚えている。突入寸前、俄かに自軍の勢いが減衰したからである。やはりここまでの長躯と傾斜の変化によるものだったが、聞隆運の知る由もない。悠長に原因を探っている局面でもなく、ただただ声を荒らげて兵衆を叱咤する。
もちろん北軍とて手を束ねているわけがない。アリハンの号令一下、第五翼を挙げて前進させる。指揮を佐けるのは、黄鶴郎セトと一丈姐カノン。増強された梁軍は第五翼の兵力を大きく上回っていたが、あわてる風もない。
そのころ互いの中軍においても動きがあった。まずはインジャ帥いる北軍第一翼。前軍が交戦に入ったのを知るや、サノウは満足げに頷いて、
「梁騎が『嘴』の中に入りました。上下の嘴に第一の合図を」
応じて銅鑼が轟き、盛んに旌旗がうち振られる。サノウの言う「上下の嘴」とは、平原の東西に待機せる両翼のこと。すなわち西には神箭将ヒィ・チノの第二翼が、東には衛天王カントゥカの第四翼があって、中央からの指示を今か今かと待っていた。
いざ合図を耳目に捉えたヒィ・チノは雀躍して、
「おお、来た! 『網』を拡げろとの合図だ!」
命を下せば、第二翼の二万騎は陣形を更えて、するすると南へ伸びていく。東の第四翼でも、麒麟児シンが同様に兵を移しはじめる。
一方の南軍はと云えば、慕兼成が戦場を遠望しつつ言うには、
「何だ、あっと言う間に押しこんでしまったな。愚かなものよ。大兵を擁しながら前に出ることもなく、無策に急戴白の突入を許すとは」
洪施が迎合して、
「蛮族とは常に愚かなものです」
また崇浩が進言して言うには、
「我らも兵を進めましょう。急戴白の攻勢凄まじく、現状ではやや騎兵が突出しすぎているようです。ここは中軍も加わって蛮族を一掃するべきです」
慕兼成はおおいに喜んで、
「善きかな! まずは四頭豹に前進を命じよ。続いて我らも順次平原に展開する」
これを聞いた諸将は大喜び。たちまち前面の四頭豹および左右の丘を占める梁軍に命が伝えられる。
四頭豹は伝令に接すると眉を顰めて、傍らの大スイシに言った。
「いまだ後続も至ってないというのに、有利な陣を棄てて決戦する必要がどこにある」
「……兵勢優位と看たのでしょう」
力なく答えれば、四頭豹はますます険しい顔で言うには、
「優位? 私には急戴白らがうっかり誘いだされたようにしか見えぬ。ならば進むよりもむしろ、突出した騎兵を速やかに退かせるべきではないか」
「…………」
もはや大スイシは答えない。彼もまた同感だったからである。四頭豹も口を閉ざして、しばし黙考に入る。
と、幾許もしないうちに銅鑼が打ち鳴らされ、頻々と伝令が至って出陣を促す。ついには梁軍がこちらの進発を待たずに丘を下りはじめて、中腹に布陣する四頭豹軍に圧力を加えてきた。四頭豹は舌打ちすると、
「やむなし」
吐き捨てて、しぶしぶ重い腰を上げる。こうして四頭豹率いるヤクマン軍は、梁軍に押し出されるようにして平原に進出した。
(注1)【一部の人知を超えた猛将】例えば、衛天王カントゥカ、盤天竜ハレルヤ、亜喪神ムカリなどを指す。ちなみに呑天虎コヤンサンなどは、我を忘れて単騎独行してばかりいるように見えるが、概して周囲には多くの十人長があってともに戦っているのである。
(注2)【草原の民は「形名分数を……】形名分数は、軍の指揮系統、統制、編制のこと。第一九四回③参照。




