第一九五回 ③
インジャ平原に精騎を列ねて罔罟を張り
ドルベン死灰の余焔を焚いて掣肘を試む
毛可功は帰陣するや、慕兼成に謁見を請う。これを訝しんだのは、先の四頭豹と同様である。よもやあの槁木死灰が自ら上申に及ぶとは慮外のことだったからである。不審に思いつつ聞いてみれば、敵軍は「佯北の計」をもって梁軍を陥れんとしていると言う。慕兼成は瞬時に激怒して、
「わけのわからぬことを言って勝勢にある軍を惑わそうとは、それでも軍師か!」
たちまち毛可功は萎縮したが、なおも雄心を振り絞って言うには、
「い、いかに我が軍が精鋭とはいえ、塞北の兵があれほど弱いはずがありません。きっと奸策があるに相違ないと……」
「喧しい!!」
慕兼成は最後まで言わさず、手近にあった木椀を投げつける。鈍い音がして、毛可功は頭を押さえて蹲る。愕然として指の隙間から見上げれば、
「何だ、その眼は。妄言を却けられたのがそれほど不服か?」
答えられずにいるところへ、騒ぎを聞きつけて駈けこんだものがあった。歩卒の将の一人、玄望熹である。経緯を知ると、何ごとか得心したらしく幾度も頷いて、
「先ほど軍師があの臆病な蛮人の陣に入っていくのを見ましたぞ!」
臆病な蛮人とは、もちろん四頭豹のこと。慕兼成はますます怒って、
「いったいあれに何を吹きこまれた? いやしくも中華の軍師ともあろうものが、蛮族ごときに誑かされようとは……」
玄望熹もこれを詰って、
「蛮人の妄想に冒されるくらいなら、これまでどおり何も言わぬほうがましだ」
「いや、わ、私は、軍師として、我が軍の危機を看過するわけには……」
「それが妄想だと言っているのだ!」
決めつけられて毛可功は目を白黒させる。慕兼成は卓をどんと叩いて、
「もうお前なぞに用はない。軍師の任を解く。檻車の中で我が勝利を見ておれ。処断は蛮族を伐ったあとだ!」
左右に命じれば、抗弁する暇もなく捕縛される。毛可功は慕兼成に恨めしげな視線を送ったばかり。気はすっかり萎えて、何やらぶつぶつ言いながら連れ出される。その場にいるものは誰も聞いていなかったが、いったい何を呟いていたかと云えば、
「ああ、ここであんな奴にさえ遭わなければ……。決して忘れまいぞ、今に……」
胸中に深く怨みを結んだが、このことは覚えておいてよい。
それはさておき、毛可功捕縛の報はすぐに全軍の知るところとなる。多くのものはせせら笑ったのみだったが、四頭豹独りはテンゲリを仰いで長嘆息する。槁木死灰の余焔の燦めきは、慕兼成に掣肘(注1)を加えるどころか、これを怒らせてより固陋蠢愚(注2)に追いやったに過ぎない。
落胆すること甚だしかったが、持ち駒の少ない四頭豹にとってはあれでも繋ぎ止めておきたい人材の一人。そこで密かに大スイシを遣ってこれを慰めんと図る。しかし復命した大スイシの報告を聞いて、さらに失望することになった。
「あの軍師殿はすっかり己の殻に籠もったようで、こちらが何を言っても応えることなく、膝を抱えて延々とよく判らぬことを呟いておりました」
「いよいよまことの死灰と成り果てたか……」
やはり恃むべきは己の才覚のみと思い定めた四頭豹は、さらに斥候の数を増やして北軍を捉えんとする。と、ほどなく敵のほぼ全軍がウチュマグ平原に在ることを突き止めた。その地勢や敵情について仔細に知ると、あれこれと考究する。
そしてついに意を決して慕兼成の本営を訪ねた。四頭豹は拒まれこそしなかったが、当然歓迎されるわけもない。慕兼成は眉間に深い皺を刻んで、不快げにこれを睨みつける。かまわず北軍がウチュマグ平原に集結していることを告げれば、
「よし。ただちにその三叉矢平原とやらに向かおう。もう下がってよいぞ」
「お待ちください!」
四頭豹はひとたび唇を湿すと、ここぞとばかりに陳べて言うには、
「敵人は何か意図があって、かの地で待ちかまえているのです。兵を進めるにおいては慎重の上にも慎重を期すべきかと」
慕兼成はうんざりした様子で、
「またそれか。もう聞き飽きたわ。もはや蛮族は我ら中華の敵ではない。四の五の言わずに黙ってついてくればよい!」
四頭豹は湧き上がる怒りを抑え、辞を卑くして言うには、
「閣下の武威についてはもとより承知しておりますが、勝利を確実なものにするためにもぜひお聴きください。敵人の布陣をつらつら観るに、あまりに用兵の常道から外れております。いくら道理に昏い蛮族とはいえ、一人としてそれに気づかぬわけもなく、あえてそうするからにはきっと何か思うところがあるのです」
慕兼成は頬を歪めただけで一向に興味を示さない。代わって洪施が尋ねて、
「布陣が? ふん、一応は聞いてやろうではないか」
「ありがとうございます。よろしいですか。かの平原は、南北数里ほどの細長い回廊のような地勢。その外側は複雑に起伏して、大軍を展開するには不向きです」
「それで?」
「平原の南端にはみっつの丘があり、城門のごとく南からの侵入を阻んでいます」
洪施もまた次第に苛々して、
「だから何だ?」
語気を荒らげて問えば、
「然るに敵は、有利なその丘を占めることなく、その先の平原に陣を布いています。これでは易々と南軍の侵入を許すばかりか、みっつの高陵すべてを奪われ、かつ騎兵の突貫にわざわざ道を空けてやっているようなもの。これはどうしたことでしょう?」
すると卒かに慕兼成が呵々と嗤って、
「お前が兵法を囓っているのはよく判った。……が、いたずらに小賢しい。ああ、まさに無用の賢しら(注3)よ。すべては魯鈍な蛮族らしい錯誤というだけのこと、何ら異とするに足りぬ。ならば望みどおり、かの地を蛮族の墓所に変えるのみ」
(注1)【掣肘】わきから干渉して、人の自由な行動を妨げること。
(注2)【固陋蠢愚】他人の意見を聞くことなく、視野が狭いために柔軟で適正な判断ができないこと。「固陋」は他人の考えを聞かず、視野が狭いこと。「蠢愚」は愚かで知識がないこと。
(注3)【賢しら】利口そうに振る舞うこと。物知りぶること。また、そのさま。




