第一九五回 ①
インジャ平原に精騎を列ねて罔罟を張り
ドルベン死灰の余焔を焚いて掣肘を試む
さて、北軍は霹靂狼トシ・チノらの合流によって陣容を回復すると、獬豸軍師サノウの策戦に順って再戦を挑む。当初サノウは、南軍を平原に誘きだす方策を釣り針に譬えた。やがて計略全体を指して「大鵬の嘴の計」と称したが、誰にも容れられず、みな奇人チルゲイ言うところの「釣魚の計」と呼んで雀躍する。
重任を担って先鋒となったのは超世傑ムジカ。紅火将軍キレカと神風将軍アステルノを両翼に配して攻め寄せる。ところが梁騎がひとたび突貫すれば、瞬く間に逃げ散って、まるで戦にならない。
三日目にはキレカに替わって花貌豹サチに一翼を預けたが、やはり鎧袖一触、早々に遁走する。おかげで梁軍は大将の慕兼成をはじめとして、大半のものがすっかりこれを侮るようになった。
しかしその夜。日中に兵を休めたキレカが、その渾名が示すとおりに火計をもって夜襲を敢行する。損害は軽微だったが、歩卒の将たる杜幹が不運にも命を落とした。慕兼成は激昂して言うには、
「蛮族ごときが何と小癪な。後悔させてやるぞ」
そこで夜が明けるや、全軍に出立を告げる。また四頭豹に斥候を出して敵を索めるよう命じた。一方で彼の率いるヤクマン軍を前軍から外して、急戴白超粲を先駆けとする。第二陣に大刀冠者聞隆運。さらに黄小二と岑芳の歩兵が続いて、ヤクマン軍はこれと中軍に挟まれるように配された。
慕兼成が副将の洪施に言うには、
「蛮族の兵は脆弱で逃げ足ばかり速い。あの四頭豹とやらの兵も要所に用いることはできぬというわけよ」
洪施もたちまち賛同して、主従は草原の兵をおおいに嘲ったが、くどくどしい話は抜きにする。
梁軍動く、の報を受けた北軍の本営はどっと沸き立つ。百策花セイネンが手を拍って言うには、
「どうやら魚が釣り針に掛かったぞ!」
居並ぶ諸将はわっと笑って、「釣魚だ、釣魚だ!」と囃したてる。神箭将ヒィ・チノが眼を炯々(注1)と輝かせて、
「あとは大網まで、敵軍をしかと誘導できるかどうかだ」
獅子ギィが頷いて、
「超世傑なら、きっとうまくやってくれよう。緒戦の進退は完璧と云ってよい。佯り北げて、あえて敵人の侮蔑と慢心を煽り、それでいながら損失はほぼ皆無とは、並の将にできることではない」
つまりムジカたちが繰り返した醜態とも見るべき敗走は、すべて計略のうち。自ら巨大な「釣り針」と化して、「大魚」を誘わんとしたもの。
潤治卿ヒラトが言うには、
「敵人は騎兵による佯北の計を知らぬ。ただただ草原の兵を弱いものと侮っただろう」
長韁縄サイドゥもやや昂奮しつつ、
「何より妙手は、紅火将軍の夜襲。梁の大将は愚弄されたと感じたに違いない。頭に血が上ったか、即日全軍を動かしたのだからな」
独り顰め面のサノウが、喧噪を鎮めて言うには、
「前線のことは超世傑に委せておいてよいでしょう。我らは我らの手はずを十全に整えておくべきです。この一戦で必ず梁の騎兵を殲滅し、四頭豹を擒えなければなりません」
「当然! 軍師に言われるまでもない。すべて終わらせてやるさ」
意気込んで間髪入れず答えたのは、麒麟児シン。
「そうだ! ここで梁軍と四頭豹を一網打尽にしてやろうぞ」
とは、一角虎スク。好漢たちは勇躍して、おうと応える。ちなみにスクの言う「ここ」が何処を指すかと云えば、ツァビタル高原より北へ百里、近隣の遊牧民から「ウチュマグ」と呼ばれる地。策戦を鑑みて知世郞タクカが選定したもの。
いかなる土地かと云えば、ごく緩やかな、注意しなければ気づかぬほどの僅かな傾斜を有った細く長い平原。細いといえどもその幅は東西一里になんなんとし、南北の長さは数里に及ぶ。南端にみっつの低い丘があって、その麓から北へ向かってなだらかに下っている。こうした地形から「三叉矢」と名付けられたという次第。
義君インジャの中軍は、ウチュマグ平原の北端近くに置いた。中央には、もちろん石沐猴ナハンコルジが護持する大将旗がはためく。実は件の傾斜は、インジャの本営より三百歩ほど手前から漸く上りに転じている。これもほんの僅かな差なので、馬上にあっては気づきにくい。
中軍の前方に布陣したのは碧睛竜皇アリハンの第五翼。西方の右翼には神箭将ヒィ・チノと獅子ギィの第二翼。そして左翼に衛天王カントゥカの第四翼。王大母ガラコ率いる第七翼は、輜重とともにずっと後方にある。
インジャは傍らの鉄鞭のアネク・ハトンを顧みて、
「長きに亘った四頭豹との争闘も、ついに決着のときが来た。始めて戦ってから十五年(注2)。その間草原は、彼の神算鬼謀とも云うべき智略に翻弄され続けてきた。それもまもなく終わる。いや、終わらせねばならぬ」
「ええ。もう四頭豹のほしいままにはさせません。彼奴がどれだけ奸謀を巡らそうと、どれだけ異国の軍勢を招き呼ぼうと、我らの志を挫くことはできません。そして、『志あるものには必ず道がある』ものです。きっとテンゲリの加護が得られましょう」
力強い答えにインジャもまた意を強くしたが、この話もここまでとする。
(注1)【炯々】目が鋭く光るさま。ものがきらきら光り輝くさま。
(注2)【十五年】四頭豹の初登場については、第四 九回①参照。インジャはジョルチ部統一に向けて、ナオルの兄であるウルゲンを攻めた。四頭豹はその幕僚としてインジャたちを散々に苦しめた。




