第一九四回 ④
ムジカ釣魚之計に任じて三たび背走し
ドルベン首鼠両端を持して常に遅疑す
四頭豹からの伝令を受けた慕兼成は、やはりこれを重んじようとしない。それどころか、新たな敵将が女と知るや、あからさまに侮蔑の色を浮かべて、
「はっはっは、聞いたか。塞北は人より羊が多いと云うが、まことに人がおらんのだな。女まで戦に駆りださねばならぬとは!」
周囲の幕僚や武官たちはどっと嗤って、いよいよ敵軍を侮る。独り毛可功だけは俯いて笑わなかったが、そもそも話を聞いていたかどうか。
「まあよい、愚かな蛮族どもを驚かせてやろう。どうせ彼奴らはすぐに退く。が、今日は少し深めに追ってやれ。歩兵も前進させる」
各処に命が伝わり、軍中は俄かにあわただしくなる。慕兼成自身も馬上の人となり、中軍を率いておもむろに発つ。それを知った四頭豹は唖然として、唯一残った幕僚である大スイシを顧みて言うには、
「警戒するどころか、本営を軽々しく前に出すとは……。私にはあの大将軍の考えていることがさっぱり解らぬ。お前はどうだ?」
「相国様に解らぬことが、どうして私ごときに解りましょう」
老いた謀臣は力なく首を振る。四頭豹は一瞬目を瞠っておもえらく、
「おや、この男もずいぶん老けたものだ。もしや子を失ったせいか?」
もちろん口には出さない。何となれば、小スイシが死んだのは、四頭豹の計策に因るものだったからである(注1)。
それはさておき、両軍相対して金鼓轟く。喊声が挙がり、例によって梁軍の騎兵が突貫に移る。四頭豹もそれを横目に突撃を命じたが、
「ゆえなく紅火将軍と花貌豹を替えるはずがない。さては対面する急戴白のほうが御しやすいと看たか」
たしかに急戴白超粲は、そろそろ老境に入らんとするも血気に逸る猪突猛進の心性。聞隆運のほうが歳は若いが、沈着で存外堅実である。よって超粲のほうが計略に嵌めやすいには違いない。
「ふん、さては連日の不可解な遁走は、両将の気質を見極めるためだったか。ならば今日はきっと異なる動きを見せるはず。この四頭豹を欺こうとてそうはいかぬ」
左右両翼を睨みながら兵を進める。ところがまたも予想は裏切られる。趙粲、聞隆運が突進すると、北軍は判で押したようにあっさりと崩れた。試みに抗おうともせず、片端から背を向ける。四頭豹は愕然として、
「なぜだ! そんなはずがない!」
思わず喚いたが、眼前で起こっていることが覆るわけもない。四頭豹は信じられぬ思いで戦況を眺める。殊にあの花貌豹が容易く撃ち破られるなどということがあろうか。かのものは、かつてドゥルガド台地(注2)でもヴァルタラ平原(注3)でも寡兵をもって大敵と合し、能く持ち堪えることによって勝利に貢献した名将である。
「いったい何が、何が起きている……。それとも認めたくはないが、梁騎の突貫とは対手から見ればそれほど強力なのか……?」
迷ううちにも梁軍は総力挙げての追撃に入る。騎兵を率いる聞隆運と趙粲は、遥かに先行している。先に慕兼成が命じたとおり、歩卒も得物を抱えて走る。これを率いる黄小二、杜幹、崇浩、玄望熹、岑芳らは、馬上から盛んに督戦(注4)する。
しかし北軍の逃げ足は思いのほか速く、またもたいした戦果は挙げられない。それでも梁将たちはおおいに満足して漸く兵を収める。岑芳が昂奮しつつ言うには、
「なるほど、塞北の将は兵法に通暁しているぞ! 『三十六計、走ぐるを上と為す』というわけだ。はっはっは」
本営はどっと沸いて、口々に敵軍を嘲弄する。四頭豹の危惧などとても言いだせる雰囲気ではない。慕兼成は諸将を労うと、もとの陣地には戻らず、十里ほど進んで野営するよう命じた。
その夜。南軍の将兵は、日中の戦に紅火将軍の姿が見えなかった理由を知ることになった。
深更、暗中にぽつぽつと火が点ったかと思うと、たちまち無数に増える。訝しんだ途端に、一群の怪火は一斉に天空高く舞い上がった。次の瞬間には、南軍の陣営にどっと降り注ぐ。次々と天幕やら幕舎やらに突き刺されば、あちこちで火の手が上がる。
南軍の将兵はしばし目を白黒させていたが、やっと何が起きたか察して、
「火矢だ! 敵襲、敵襲!」
叫び、喚き、わけもわからず駈け回る。陣中は大混乱に陥って、上を下への大騒ぎ。歩卒の中には味方の馬蹄に躙られて命を落とすものまで出る有様。そこへ数千の騎兵が紅火将軍キレカを先頭に突き入った。縦横無尽に暴れまくって、さらに行く先々で火矢を放つ。
漸く梁軍が態勢を整えたころには、北軍は風のごとく駆け去ったあとであった。梁将たちは切歯扼腕、ぎりぎりと歯噛みして悔しがる。
損害を査べれば総じて軽微ではあったが、何としたことか、杜幹が穀物倉の傍で焼死していた。消火の指揮を執るうちに、焼け崩れた穀物袋の下敷きになったもの。もとより愚将だったが、智慧のみならず運もなかったのである。
敵襲について知った慕兼成の怒るまいことか、まさに怒り心頭に発して幾度も地を踏み鳴らし、また卓を撲って、咎なき従臣を罵り散らす。激昂してついに言うには、
「蛮族ごときが何と小癪な。後悔させてやるぞ。全軍挙げて侵攻し、必ずこれを覆滅してくれん!」
このことから南海の大魚は猛然と巣を離れ、大海に張られた大網に知らず導かれることとなる。蔑視は目を曇らせ、忿怒は脳を鈍らせるとはまさにこのこと。
近くの四頭豹には皆目解らぬ華将の肚裡も、遠くの獬豸軍師にはかえって一目瞭然、これを弄ぶも操るも自由自在といったところ。果たして、北上する梁軍を好漢たちはいかにして迎え撃つか。それは次回で。
(注1)【小スイシが死んだのは……】小スイシは第二次ヴァルタラの役で戦死した。四頭豹に捨て駒にされたためである。第一八一回①~②参照。
(注2)【ドゥルガド台地】カントゥカがミクケルを破って西原の覇権を確立した会戦。サチは三倍の敵軍を相手に退かず、友軍に勝利をもたらした。第七 五回①~③参照。
(注3)【ヴァルタラ平原】第二次ヴァルタラの役。サチは数で勝る三色道人ゴルバンの軍勢と伍して、「大鵬の翼の計」を成就せしめた。第一八一回③~④参照。
(注4)【督戦】部下を監視、監督、激励して戦わせること。




