第一九三回 ④
神風将ダナ・ガヂャルに征きて輒ち姦婦を囚え
慕兼成ドルベンを軽んじて二たび上申を却ける
訝しく思う方もあるやもしれぬので、一応述べておく。四頭豹は相当に華語が操れる。鬼頭児や尸解道士との会話にはあえて九声鷗の通辯を介したが、実はその必要はない。梁公主を巧みに籠絡しえたのも、独り華語を能くしたからにほかならない。
それはさておき、四頭豹の抗議は実らず、梁軍は続々と平原に下る。歩騎併せて二十万の大軍ともなれば混乱は免れない。あれやこれやと惑ったあげく、三日がかりで漸く布陣を了える。
その有様を眺めながら、四頭豹は暗澹たる思いに駆られる。自身の率いるヤクマン軍はあとから動いたにもかかわらず、早々に任所に就いた。慕兼成が思いつくまま命じたとおり、前軍の中央である。
両翼には、梁の騎兵が勇将とともに配される。右には、急戴白の異名を持つ趙粲。「戴白」とは、白くなった頭髪のことである。つまり老いてなお盛んな猛将。
左には、大刀冠者こと聞隆運。こちらは壮年。卑賤の出自ながら、武芸の腕ひとつで一軍の将にまで登りつめた端倪すべからざる(注1)豪のもの。その渾名が示すごとく、刃渡り三尺の大刀を得物とする。
大部を占める歩兵を指揮する将は数多ある。しかし辛うじて名を挙げるべきは、黄小二、杜幹、崇浩、玄望熹、岑芳くらいなもので、あとは張三李四(注2)の類。いちいち記すまでもない。
慕兼成もまた本営を平原に移した。諸将を集めて軍議を催すと、四頭豹も末席を与えられる。大将軍たる慕兼成は傲然と胸を反らして、諸将を睥睨しつつ言った。
「蛮族どもが、畏れ多くも先帝陛下の公主を攫ったとの報告があった。我らは必ずこれを覆滅して、公主をお救いせねばならぬ。何か良い智恵はないか」
真っ先に手を挙げたのは崇浩。諂笑(注3)を浮かべて言うには、
「良い智恵も何も、どうして無知蒙昧な蛮族ごときを恐れましょう。我らには敵に倍する兵があります。一戦してこれを撃ち破れば、たちまち震え上がって公主を差しだし、あわてて和を請うてくるでしょう」
この答えに慕兼成は内心おおいに満足したが、なおも問うて、
「ほかにはないか」
すると居並ぶ諸将は先を争うように口を開いて、慕兼成の武略を褒めそやし、敵を貶めて、盛んに阿る。最後に副将たる洪施が恭しく拱手して、
「所詮は蛮勇を振るうだけの愚鈍なものども。いざ中華の軍容に接すれば、自らの卑小を恥じ、伏して助命を嘆願するに違いありません。閣下の名は塞北を征した名将として永久に青史に刻まれることでしょう」
末席からこの顛末を見ていた四頭豹は、うんざりして腸が煮える思いだったが、表面上は温顔に笑みすら湛えつつ、じっと黙っていた。
そもそも四頭豹も、梁将がしきりに愚弄している蛮族である。だというのに、誰一人として一顧だにしない。なるほど、中華の民からすれば、草原の民など獣も同然、よもや同じ心を有つ人とは思いもしないのだろう。
慕兼成は大功すでに成ったかのごとく錯覚して、すっかり気を好くする。満悦の体で座を見渡せば、うちに独りつまらなそうな顔で目を伏せているものがある。慕兼成は眉を顰めて尋ねて言うには、
「軍師には何か異見があるか」
すると男はおもむろに顔を上げたが、茫乎(注4)たる表情で目は虚ろ、俄かには何も言わない。そこで再度促せば、
「はあ……」
と、鈍い反応を返したばかり。慕兼成はむっとして、
「この槁木死灰(注5)が……」
当人に聞こえぬよう、小さく吐き捨てる。男は何ごともなかったかのように、また目を伏せた。何か考えているようにも、考えていないようにも見える。
この一風変わった男の名は、毛可功。一応は梁軍の軍師である。今少し若いころには智略縦横、たびたび軍功を挙げたが、近年はどうも気力がないらしく何のはたらきもない。槁木死灰とは、それを揶揄した悪しき渾名である。
毛可功は、鬼頭児の副将として珪州城(※光都のこと)にある平北将軍江奇成と親しかったが、その江奇成が嘆じて言うには、
「あれは今ではまったく無能扱いされているが、本来は兵法に通じた智者なのだ。ただ順風のときは良いが、少しでも躓くと途端にすべてを擲って鬱ぎこんでしまう癖がある。要するに心が脆いのだ」
何はともあれ、槁木死灰は今日も覇気がない。慕兼成はもはやこれを顧みず、
「蛮族が退かぬところを看ると、早晩きっと攻め寄せてくるに違いない。それを迎え撃ってから、次の策を決めればよいだろう」
みな口を揃えて慕兼成を讃える。いよいよ四頭豹は堪えきれず、思わず立ち上がって声を挙げた。
「お待ちください! やはり高原に拠って守禦を固めるべきです。座して視ていれば容易く勝利が得られるのですぞ」
慕兼成はたちまち激昂して、
「お前は先には戦え、戦えとうるさかったではないか。それが今となって戦うなと言う。どうして信用できようか。黙って命じたことだけをやっていればよい!」
獬豸軍師の看破したとおり、いかに四頭豹がセチェン(※知恵者の意)でも、献言がことごとく却けられては用を成さない。譬えて謂えば、「賢き猟犬も無能な主の下では野鼠も見失う」といったところ。
度しがたきは、華人の草原の民への軽侮の心情。こればかりは一朝一夕に覆るものでもない。とはいえ、梁軍は二十万もの大兵を擁し、武名高き勇将もある。何より四頭豹は軽んじられていても四頭豹、どんな起死回生の策を秘めているか計り知れない。果たして、インジャたちは梁軍を撃つためにいかにして兵を用いるか。それは次回で。
(注1)【端倪すべからざる】安易に推し測るべきではない。予想が及ばない。計り知れない。端倪は、ものごとの始めと終わりの意。
(注2)【張三李四】ありふれた平凡でつまらない人を指す。張氏の三男と李氏の四男の意。張も李も中華では非常に多い姓であることから。
(注3)【諂笑】人に媚びて愛想笑いをすること。
(注4)【茫乎】広々としているさま。ぼんやりとして、つかみどころがないさま。ここでは後者の意。
(注5)【槁木死灰】肉体は枯れた木のようであり、心は冷たい灰のようであること。心身に生気、活力、意欲などがないことの喩え。




