第一九二回 ④
サノウ兵書を繙いて梁軍の三過を列ね
ゴロ主君を補けて華人の鉄騎を論う
チルゲイの言葉に慄然とせざるものはない。ナユテが苦々しげに言うには、
「緒戦に怪しげな風使いやら巨人兵やらを立ててきたのも、すべては梁軍が壁を築いて埋伏を了える時を稼ぐため。あんな稚拙な策で我々をどうこうできるとは、四頭豹は露ほども思わなかったろう。それを破って得意になっていたのだから、己の愚かしさを呪いたくなる」
好漢たちは交々これを慰める。チルゲイが言うには、
「神道子なかりせば、その稚拙な策に敗れたかもしれぬ。殆うく四頭豹に嗤われるところであったぞ。それはさておき、軍師は敵軍の三過を説いてみせたが、まだこれを破る計策をしかと述べていない。さあ、拝聴、拝聴」
まったくそのとおりだったので、視線はサノウに集まる。ひとつ頷いて、
「その前に獅子殿に確認しておきたいことがある」
不意に指名されたギィは驚いて、
「私に? さて何でしょう」
「梁の騎兵とまともに交戦したのはマシゲル軍のみ(注1)。率直に感じたところを教えてほしい」
ギィは居住まいを正して言うには、
「戦ったと云っても、偶々逃げる小敵に遭遇しただけのこと。参考になるか判りませんが、一応お伝えしておきましょう」
みな聞き漏らすまいとて身を乗りだす。
「梁の馬は草原のそれよりも大きく、疾駆においてはより速く駆けることができましょう。また兵衆の槍は長く、鎧は厚く、縦列を組んで突貫する戦法に卓れています。しかし……」
「しかし?」
ヒィ・チノが思わず急かす。ギィは笑みを湛えて、
「総体の印象としては、決して難敵ではありません」
一同は、おおと歓声を挙げる。ギィは続けて、
「突貫は速く強いが、それを永く保つことはできません。また騎射に巧みとは言えず、何より騎馬を自在に運用する術に欠けているようでした」
「と言うと?」
セイネンが尋ねる。ギィが言い淀んだので、代わってゴロが口を開く。
「例えば左右への旋回、駆けながらの散開や集合、あるいは反転、陣形の変更といった多彩な機動については、おそらくほとんど調練されていません。したがって陽動や佯北(注2)のような玄妙な運用が求められる策戦に用いることはできないでしょう」
ガラコがさも呆れた様子で、
「じゃあ、ただまっすぐ突っこんでくるだけかい?」
「ええ。きっと中華では、突撃して敵陣を攪乱するか、側背に展開して包囲するかだけなので、細かい機動は不要なのです」
ゴロの答えを聞いたヒィ・チノが、眼を爛々と輝かせて言うには、
「ならば恐れることはない。初手の突貫さえ能く捌けばすむ話だ」
するとサノウが両の手を拍って、
「然り! まさに神箭将が正鵠を射た(注3)。これで我々は、梁軍について歩騎ともに対処の方策を得ることができました。歩兵は騎兵と分断して、まともに戦わない。騎兵は突貫を逸らして、勢いの衰えたところを撃つ。となれば、今やこれを避けることはありません。むしろ誘きだして叩くべきです」
力強い提言に、諸将の心は一瞬に沸き立つ。が、ふとムジカが首を傾げて、
「しかし梁将は、兵力の温存こそ第一としているのでは。うまく誘いに乗るでしょうか」
「無論、策を用いる。それには梁将の驕慢、草原の民に対する蔑心を利用する」
次いでキレカが尋ねて、
「たとえ梁将を欺いても、四頭豹が謀計に気づいてこれを止めるのでは」
答えたのはサノウではなく、何とチルゲイ。
「あっはっは。梁将は四頭豹の献言を容れない、と先に軍師は言ったぞ!」
サノウは眉間に皺を寄せつつ、
「……まあ、そういうことだ」
その渋面に一同は大笑い。当初の鬱懐はさっぱり霧消して、前途洋々たる心持ちとなる。しかし独り難しい表情を崩さなかったのは、意外にも碧睛竜皇アリハン。みなに促されて、慣れない草原の言葉を駆使して訥々(注4)と言うには、
「兵馬が疲れている。戦うには寡い。どうする?」
みなはっとして顔を見合わせる。アリハンが指摘したとおり、北軍は大敗を喫したばかり。開戦前は十数万騎あったのが、今は十万騎に遠く及ばない。数多の軍馬を失い、兵衆は心身ともに困憊している。いくら諸将の気概が恢復しても、すぐに再戦を挑むのは無謀というもの。
ところがサノウは余裕綽々、泰然として述べて言うには、
「さすがは碧睛竜皇。瑣事(注5)に一喜一憂することなく大局が見えている。だが、懸念は無用。すでに種は播かれています。やがて花が咲き、果実が実ります。待っていれば、早晩機は熟します」
みなわけがわからず、再び互いに見交わす。サノウは続けて、
「早ければ数日のうちに新鋭の将兵が増強され、一挙に陣容を整えることができるでしょう」
まるで予言のごとき口吻(注6)に居並ぶものは目を瞠るばかり。すでにして敵軍の瑕疵は明らかとなり、異族と戦う術も周知されたわけだが、惜しむらくは兵が足りぬ。譬えて云えば、羊を裂こうにも刀がないといったところ。
サノウは近々援兵が至るようなことを言ったものの誰も彼も半信半疑、「無中に有を生ずる」とはまさにこのこと。しかしまた古言に曰く、「人智を尽くせば天助あり」と。打つべきときに打つべき手を指したことが、ここに至って活きることになるのである。果たして、サノウの予言は的中するか。それは次回で。
(注1)【梁の騎兵と~】ヴァルタラから撤退する鬼頭児の帰途を捉えて交戦、黒蟾蜍卞泰岳を討った。第一八四回①参照。
(注2)【佯北】偽り逃げること。
(注3)【正鵠を射た】正鵠は的の中心のこと。ものごとの急所を正確に突く、要点をうまく捉えている、という意味。
(注4)【訥々】話しぶりが流暢でなく、口籠もりながら途切れ途切れに喋るさま。
(注5)【瑣事】小さいこと。つまらないこと。
(注6)【口吻】口ぶり。口調。




