第一九二回 ③
サノウ兵書を繙いて梁軍の三過を列ね
ゴロ主君を補けて華人の鉄騎を論う
「ひとつよろしいですか」
そう言いだしたのはヒラト。もちろんこの場に発言を許されないものなどいない。促されて言うには、
「先ほどから軍師は梁将について述べていますが、どうも憶測の域を出ないように思われます。実は軍師の予想を凌駕する名将で、四頭豹を蛮族と侮ることなくその献策に耳を傾け、相携えて兵を用いるということはありませんか」
「ほとんどない」
サノウが間髪入れずに断言したので、
「なぜそう言いきれます?」
「先に言ったことと撞着(注1)するように聞こえるかもしれぬが、もし梁将が謙恭かつ有能であれば、我が軍が潰走した際、歩兵を留めて騎兵だけを送るようなことはしない。さらに言えば、そもそもあのような伏兵の策を容れることもない」
赫彗星ソラが思わず声を挙げる。
「そいつはたしかにおかしな話じゃありませんか! どういうことです?」
サノウはどう説いたものか少しく考えるようだったが、ヒィ・チノに目を留めるとこれに尋ねて言うには、
「もし神箭将が梁将だったら、北軍を追撃するときどうしたか?」
ヒィ・チノはにやりと笑うと、
「無論騎兵のみならず、歩兵もすべて高原から下ろし、後れてもよいからあとに続かせる」
「それは何故に」
「騎兵は点の突破に優れ、歩兵は面の制圧に秀でている。また騎兵は速攻を貴び、歩兵は堅守を重んじる。歩兵が先行する騎兵の後背を安んじ、四方に網を巡らしつつ進めば、敵軍の退路は自ずと限られていくだろう」
「ふむ、それから?」
「進んだ先々で要害の地を索め、歩兵に陣地を築かせて仮の城砦とする。疲れた騎兵を休ませ、歩兵をして守らしめるためだ。そうすれば連日の猛追が可能となり、敵人は息吐く暇もあるまい。蓋し敵兵と干戈を交えるだけが戦ではない。戦地の後方や周縁で何を為すか。それも戦闘と等しく重要だ。十万を超える歩兵があるなら、やれることはいくらでもある」
サノウは諸将を見渡すと、
「というわけです。ところが梁の歩兵はツァビタル高原に留まりました。その消極は、すなわち梁将の消極。彼は大勝することより、兵を保って無事に帰還することに重きを置いています。果たして千載一遇の好機を逃すことになりました。もし梁将が神箭将のごときものであったならば、南軍は高原まで退くことなく、今なお追ってきているでしょう。こうして悠長に軍議など開くべくもなかったはずです」
一同は、ほうと嘆息を漏らす。ソラがまた尋ねて、
「後段の伏兵策を採らないというのは?」
サノウは答える代わりに、
「衛天王は如何? 貴殿が梁将なら、高原上段に伏せて待つか」
問われたカントゥカはただひと言、
「いや」
「なぜか」
「騎兵を減らしすぎる」
さらに詳解を求めれば、面倒そうに顔を顰める。花貌豹サチを見遣って、あとはお前が言えと手で示す。受けて言うには、
「……中華であればともかく、草原では、騎兵が主で歩兵は従。然るに主戦たる騎兵を緒戦であれほどまでにうち減らしては、そのあと戦になりません」
「では何とする」
「一部の兵は上段に伏せるでしょうが、残りは広く展開します。下段はもちろん、もっとも兵を送るべきはさらに下の平原。北軍の退路を扼するとともに、待機する三翼との連絡を絶つためです」
「伏兵に割く一部とはいかほど?」
「歩騎併せて数万でも多すぎるくらいです。二十万とは空前絶後の数で実に驚きましたが、一方で拭うべからざる違和を覚えました」
サノウはおおいに満足した様子で、
「然り。これもまた梁将の消極を表し、かつ決して有能ではないことを示唆しています。名将が勝ちを収めんとすれば、衛天王や花貌豹が述べたように、主力たる騎兵をあれほど損耗する策に同意するはずがありません」
みな得心して幾度も頷く。サノウは続けて言うには、
「つまり梁将は愚鈍か、そうでなくとも己の兵力の温存をもっとも優先するもの。そのために草原の騎兵が何万失われようと、たしかな勝機を逃そうと、何ら痛痒を感じていません。これは彼が草原の民を蛮族と軽侮し、相争わせることを喜ぶ華人の典型であることを示しているのです」
そうと聞いて怒らぬものがあろうか。改めて戦意の沸々と湧いてくる。サノウはヒラトに向き直って言った。
「以上が潤治卿の疑義に対する回答。憶測でも期待でもなく、観察と分析によって得た根拠に基づく、蓋然(注2)たる推論だと思うが如何?」
ヒラトは陳謝して異論がないことを告げる。と、卒かに笑い声とともに、
「梁将の無能かつ消極は、四頭豹にとっても誤算だったろうなあ!」
誰かと思えば、珍しくずっと黙っていた奇人チルゲイ。ナユテが真意を糺せば、
「だってそうだろう。梁将が神箭将や衛天王に比肩するものであれば、あんな乾坤を一擲に賭すがごとき奇計をやらずともすんだ。三色道人をはじめとする将兵を失うこともなかった。すなわちあれは、四頭豹にとっても次善の策だったのさ」
笑みを収めて言うには、
「だが彼奴の恐ろしいところは、その次善の策にてハーンを討たんとしたことだ。つまり、彼奴がもっとも優先するのはハーンの命。そのためなら、味方の将兵をも欺いて、平然と死地に投じられるんだからな」
(注1)【撞着】突き当たること。ぶつかること。前後のつじつまが合わないこと。矛盾。
(注2)【蓋然】あることが実際に起こるか否か、ある程度確実であること。




