第一九〇回 ④
ムカリ耶律老頭を拐引して必生を期し
オノチ三色道人に肉迫して死命を制す
草原の民ともなれば誰しも弓射に長じているが、殊に神箭将ヒィ・チノ、雷霆子オノチ、迅矢鏃コルブの三名こそ、衆に抜きんでたものとして世上に高名であった。彼らの渾名は、いずれもその卓れた技量を称揚したもの。
そのうちの一人であるオノチが、今まさに弓を構えて三色道人に迫っていた。周囲にあった兵衆は、殊勝にも主君を守るべく前に出て、自ら盾となる。
が、二の矢は躊躇なく放たれる。矢は瞬時に兵衆の間隙を縫って、狙い違わず胸に突き立つ。三色道人は、あっと声を挙げて仰け反ったが、何とか堪えて落馬は免れた。兵衆は驚倒して周章狼狽、さらに密集して壁を作り、急ぎ後退せんと図る。
みすみすそれを許すオノチではない。跳ぶように近づきながら立て続けに矢を放てば、吸い込まれるようにことごとく的中する。人の壁などあってなきがごとし。
「おお……」
三色道人は僅かに声を漏らして、虚ろな目で宙を睨んだ。かと思うと、次の瞬間にはぐらりと傾いで、どうと落馬する。四頭豹がもっとも信頼する宿将であり、東原に広大な版図を得て順王河東公に叙せられた一世の名将も、ここに命運が尽きたのであった。
主将を失えばあとは烏合の衆、オノチとドクトが散々に追い散らす。これで北軍の進撃を阻むものはなくなった。ヒィ・チノは、時を移さず、さらなる前進を命じる。
神行公キセイの報せによって、インジャたちもまた三色道人を討ちとったことを知る。みなおおいに喜んで、やはり四頭豹を追撃するべく兵を進める。あとに続く第五翼の衛天王カントゥカにも伝令を送れば、逃げる四頭豹を追って約九万騎が斜面を駆け上がる。
先行するのは、「紅き隷民」。敵軍の後尾に喰らいついて、執拗に攻撃を加える。そのうちにムジカの第三翼が追いついてくる。先頭を駆けるのは、皁矮虎マクベンと笑小鬼アルチン。一万数千騎がこれに従う。
さらにはギィの第七翼、ヒィ・チノの第二翼、そして碧睛竜皇アリハン率いる第一翼の前軍がうち続く。
好漢諸将は、兵衆とともに続々とツァビタル高原の上段に達した。そこで彼らはありうべからざるものを目にすることになる。
最初に異状に気づいたのはムジカ。眉を顰めて呟いて言うには、
「あれは……? 長城?」
もちろんそんなはずはない。中華の築いた万里の長城は、高原の遥か南にある。遠方に過ぎて、目に入る道理がない。
彼らが思い違いをしたのも無理からぬこと。何を見たかと云えば、数里ほど前方に延々と横たわる木製の壁。
「何だ、あれは……?」
奇異に思いながら、馬を進める。よくよく観れば、中央部分に闕所(注1)があって、敵軍はそこを通って逃げていく。先がどうなっているのか、高さ一丈ほどの壁に遮られて見通すことができない。
ムジカは一瞬、奸謀を疑って兵を止めるべきか迷ったが、併走する打虎娘タゴサが憤慨して言うには、
「四頭豹ってのは何て姑息(注2)なんだろうね! 少しでも逃げる時を稼ごうって、あんなもの拵えてさ」
「ふうむ。そういうことか……?」
ムジカの迷いは決して払拭されたわけではなかったが、今の兵勢を殺ぐことをより恐れて何も言わなかった。後続のヒィ・チノやギィたちも同様、僅かな疑念よりも回山倒海(注3)の勢いに任じることを択ぶ。
カトラが嘯いて言うには、
「あんな薄い壁一枚で、我らの足が止まるものか! 見ろよ、ぐらぐらと揺れて今にも倒れそうだぜ」
タミチが力強く頷いて、
「何も四頭豹の作った道を通らずとも、あれしきの壁、蹴倒して進めばよい」
そこで第七翼は闕所に回らず、まっすぐ左方の壁に向かう。それを見たヒィ・チノは、第二翼の半数を長者ワドチャと小金剛モゲトに預けて、右方の壁を破壊するよう命じる。
一方、黄金の僚友のうちでもっとも先を行くマクベンは、険しい表情でおもえらく、
「ふん。奸計があろうとかまうものか。たとえ俺が斃れても、続く誰かが四頭豹を討てばそれで善い」
狐疑逡巡(注4)しているときではない。四頭豹こそ乱世の元兇、この千載一遇の機を捉えて討ち果たしてしまえば、きっと平和と安寧の世が訪れる。そのために戦ってきたのである。それに比べれば、己の命など「鴻毛(注5)より軽し」とすべきもの。
すでに紅き隷民は、敵軍に蹤って謎の壁より先へ突入した。マクベンたちも遅れてはならじと馬を急かす。
件の闕所に近づいてみれば、ただ壁が途切れているのではなかった。左右の壁ともそこから奥に向かって折れて、ずっと先まで続いている。まるで誘導されているようで好い気分がしない。しかしマクベンは、雄心を奮って叫んだ。
「俚諺にも、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と謂うではないか。進め、進め!」
このことから、数多の好漢が胆を冷やしたばかりか、身まで傷つけることになろうとはいったい誰が知りえよう。そのために大驚失色(注6)、怒髪衝天、悲憤慷慨、切歯扼腕といったありとあらゆる情念が次々に噴出することになる。
まことに恐るべきは奸智、憎むべきは外寇と云ったところ。果たして、黄金の僚友たちは無事に四頭豹を討つことができるか。それは次回で。
(注1)【闕所】欠けているところ。
(注2)【姑息】一時しのぎ。その場のがれ。
(注3)【回山倒海】勢いが極めて盛んな形容。山を転がし海をひっくり返す意から。
(注4)【狐疑逡巡】疑い深くて決心がつかず、ぐずぐずすること。
(注5)【鴻毛】鴻の羽毛。きわめて軽いものの譬え。
(注6)【大驚失色】おおいに驚いて、顔色が青ざめること。




